人々は 死ぬこと恐れる それゆえに 殺してはならぬ 殺させてはならぬ(129)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

サッベー      タサンティ   ダンダッサ
Sabbe        tasanti     daṇḍassa,
すべての者は   震える    棒(暴力)に

サッベー      バーヤンティ  マッチュノー
sabbe        bhāyanti     maccuno;
すべての者は   恐怖する    死に

アッターナン  ウパマン   カトゥワー
Attānaṃ     upamaṃ    katvā,
自己を     例えと    して

ナ  ハネッヤ  ナ   ガータイェー
na  haneyya  na   ghātaye.
な  殺す    な   殺させる


○直訳
すべての者は棒(暴力)に震える
すべての者は死に恐怖する(死を恐れている)
自己を例えとして(自分の身を引き比べて)
殺すな、殺させるな


○一口メモ
昨日、予告したように今回の詩は、「なぜ殺してはいけないか?」に答えるものなのです。

始めに事実を示しています。すべての者(生命)は棒を恐れています。この場合の棒とは暴力を意味しているのです。暴力で痛めつけられれば、痛みがあり、苦しみがあるから暴力を恐れるのです。その通りですが、それ以上に、それは暴力によって死ぬことになるかも知れないからです。

すべての者(生命)は死を恐れていると言う事実があります。これが事実かどうか、自分の身に引き比べてみれば分かることなのです。難しい言い回しをしていますが、自分は死を恐れているかどうか正直に感じてみれば分かると言うと言うことです。そのように他の生命も死を恐れているということです。そしてこれが事実なのです。

殺していけない理由は、生命が死を恐れているからなのです。
恐れていることはしてはいけません。
別の言い方をすれば、嫌がることはしてはいけないということです。
ここで、もう一度、自分の身に引き比べて考えれば、嫌がることはしてはいけないことが分かります。
あなたは自分の嫌なことをされたくのならば、あなたは他人の嫌なことをしてはいけないのです。
これは正しい論理であり、正義であり、真理です。

少し、余談になりますが、いじめは嫌がることをする典型的な例です。いじめがいかに間違っていることかよくわかります。

この詩の最後は、「殺すな、殺させてはいけない」という言葉です。「殺すな」は、自分が手を下して殺すなということですが、「殺させるな」とは、自分が直接手を下さなくとも、「殺せ」と言えば、言葉による殺人であり、その時は、殺そうという意図があり、心による殺人があるからです。身、口、意で「殺す行為」を禁じているのです。

一つの例として、現在の日本の法律では死刑を認めていますが、死刑は殺させることを国家に容認していることになると思います。やはり、死刑を容認するべきではないと思います。

さて、明日の詩では、殺していけないもう一つの根拠について、述べることになります。


「人々は 死ぬこと恐れる それゆえに 殺してはならぬ 殺させてはならぬ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_1.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_8.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。



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