学ぶこと 少ない人は 牛のよう 肉は増えるが 智慧は増えない(152)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッパッスターヤン  プリソー
Appassutāyaṃ     puriso,
少し 聞く       人は

バリワッドーワ  ジーラティ
balivaddova    jīrati;
牡牛 ように   老いる

マンサーニ  タッサ   ワッダンティ
Maṃsāni    tassa    vaḍḍhanti,
肉は      彼の   増える

パンニャー  タッサ  ナ   ワッダティ
paññā     tassa   na   vaḍḍhati.
智慧は     彼の  ない  増え


○直訳
少し聞く人は
牡牛のように老いる
彼の肉は増える(が)
彼の智慧は増えない


○一口メモ
「少し聞く人は」の「聞く」とは学ぶという意味です。
文字がない時代の勉強は、先生から知識や知恵について聞いて学ぶのでした。ですから学ぶとは聞くことでした。
「少し聞く人は」、「少ししか勉強しない人は」という意味です。
「牡牛のように老いる」とは、牡牛と同じような老い方をするという意味です。
牡牛のような老い方とはどのようなものでしょうか?
それは、次の二行「彼の肉は増える(が)、彼の智慧は増えない」です。

さて、この「彼の肉は増える(が)、彼の智慧は増えない」についてどう考えるべきでしょうか?

ここで考えておくべきことは、牡牛であるということと、インドの牛ということです。
インドでは、牛は聖なる動物としていますから、牛の肉はたべません。ですから肉が増えても食用として役に立つわけではありません。また、牡牛の場合は牛乳が取れるわけではありませんから、役に立たないのです。労働に使えますが、太った老いた牛はあまり役に立たないと思います。

牛は学ぶわけではありませんから、智慧もふえません。そのような役に立たない老い方を牡牛のような老い方と言うのです。これで良いわけはありません。

ブッダの言葉からもう少し、学んでみましょう。
少し学ぶのではなく、多く学べばどのようになるでしょう。
そすれば、牡牛の老い方と違う老い方ができるということでしょう。
牡牛の老い方は役に立たない老い方でしたが、牡牛と違う老い方は役に立つ老い方です。
ここまで考えてくると老い方とは生き方だったのですね。

多く学ぶと何が分かるのでしょうか?
いろいろな生命の生き方が分かってきます。生命は生まれ、成長し、悩み、苦しみながらも、子供を産み、育て、老いて、病み、死にます。その中で、自分と同じように、すべての生命は苦しみをなくし、幸せに生きたいと望んでいることが分かります。

そうであるならば、すべての生命の望みが叶えられるような生き方が役に立つ生き方でしょう。すべて生命の中には、もちろん自分自身も含みます。自分の親しい人々もそうです。生きとし生けるものが幸せになるような生き方が役にたつ生き方なのです。多く学ぶことで、役に立つ老い方、すなわち役にたつ生き方とは何かが分かってくるのです。


「学ぶこと 少ない人は 牛のよう 肉は増えるが 智慧は増えない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_17.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_24.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。

"学ぶこと 少ない人は 牛のよう 肉は増えるが 智慧は増えない(152)" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント