苦しみの 作者をみたぞ 渇愛と 無明は尽きた 輪廻はやめた(154)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ガハカーラカ      ディットースィ
Gahakāraka       diṭṭhosi,
家の作者(渇愛)よ   お前は見られた

プナ  ゲーハン ナ   カーハスィ
puna  gehaṃ   na   kāhasi;
再び  家を   ない  作ら

サッバー  テー   パースカー   バッガー
Sabbā    te     phāsukā     bhaggā,
すべての  お前の  梁(煩悩)は  壊れた

ガハクータン      ウィサンカタン
gahakūṭaṃ       visaṅkhataṃ;
家の屋根(無明)は   構成力を離れた

ウィサンカーラガタン   チッタン
Visaṅkhāragataṃ     cittaṃ,
構成力を離れた      心は

タンハーナン  カヤマッジャガー
taṇhānaṃ     khayamajjhagā.
渇愛を      滅尽に到達した


○直訳
家の作者(渇愛)よ、お前は見られた
再び家を作らない
すべてのお前の梁(煩悩)は壊れた
家の屋根(無明)は構成力を離れた
構成力を離れた心は
渇愛を滅尽に到達した


○一口メモ
「家」は身体のこと。「家の作者」は身体を再生させる原因である渇愛です。「梁」は煩悩のことです。「屋根」は無明の例えです。「「渇愛」はいつまでも生き続けたいと思う気持ちです。

再生の原因が分かったのです。
それは渇愛だったのです。
渇愛、いつまでも生きていたいという思いが身体の再生を促していたのです。
しかし、生命の生涯は苦しみに満ちたものなのです。
渇愛はそのことが分からずに、ただ生きていたいと望むだけなのです。
この状態を無明といいます。

渇愛の愚かさを自覚した時、渇愛は働けなくなるのです。
この時、無明の闇が消え、智慧の光りが現れるのです。

渇愛が働けなくなれば、執着がなくなります。
執着がなくなれば、再生はなくなります。
再生がなくなれば、すべての煩悩がなくなります。
それが渇愛の滅尽した時の境地です。
それを涅槃といいます。

このことを悟った時、ブッダは自分自身の悩み苦しみを克服しました。
それはすべての生命が苦しみから脱出する方法でした。

その時の喜びは私たちには想像すらできません。
しかし、153番と154番の詩で少しでも感じとりたいものです。


苦しみの 作者をみたぞ 渇愛と 無明は尽きた 輪廻はやめた


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_18.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_25.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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