己こそ 己の先生 苦労した 己は得難い 己の先生(160)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッター  ヒ    アッタノー   ナトー
Attā    hi    attano     nātho,
自己は   実に   自己の     守護者

コー  ヒ    ナトー   パロー  スィヤー
ko   hi    nātho    paro   siyā;
誰が  実に  守護者   他の   あるだろう(か)

アッタナー   ヒ     スダンテーナ
Attanā      hi      sudantena,
自己によって なぜなら  よく調御された

ナータン  ラバティ ドゥッラバン
nāthaṃ   labhati  dullabhaṃ.
守護者を  得る    得難い


○直訳
自己は実に自己の守護者
他の誰が守護者あるだろう(か)
なぜならよく調御された自己によって
得難い守護者を得る(から)

○意訳
自分が自分の先生
他のだれが自分の先生になれるだろう
身口意を守った自分は
自分の最高の先生になるだろう


○一口メモ
今回の詩のパーリ語のnāthoはパーリ語辞書には、「主、守護者」などの意味が書いてありますが、そうすると詩の意味が分かり難いのです。なかなか良い日本語の訳御が見つかりませんでした。今回、思い切って、先生と言う訳にしてみました。

人間というものは、結局自分のやりたいようにやるものです。人がいろいろ言っても、最後は自分が決めてやるのです。たとえば、脅されて行う場合でも、自分が怖いから、脅しに負けて行う場合でも、自分が決めたことなのです。受け入れ難いことかもしれませんが、多くの病気も、自分が病気になっているのです。自分は自分の意思に従って生きているのです。その意味で、自分が自分の先生になっているのです。

(最近は、先生や親の言うことをきく人はほとんどいないのが実情ですが、今回の記事の文脈では、先生の言うことを聞いて行うという意味を受け入れてほしいと思います。)

ですから、自分がいい加減な先生ならば、自分はいい加減な先生の意思に従って生きているのです。自分は他人の先生に従って生きている訳ではありません。もし自分の先生である自分を、よく鍛えて、立派な先生にしたのであれば、自分が従う先生が立派なのですから、その人は立派な幸福な生き方ができるはずでず。その人は得難い自分の先生を得たことになるのです。

これがこの詩の意味です。


「己こそ 己の先生 苦労した 己は得難い 己の先生」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_23.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_2.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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