天界の 楽といえども 及ばない 渇愛の滅の 楽に比べれば(187)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。

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○子供のためのダンマパダ

欲張らず
おもちゃあげれば
喜ばれ
友だち増えて
楽しいな


○パーリ語原文と訳語

アピ    ディッベース  カーメース
Api     dibbesu     kāmesu,
いえども  天界の     欲における

ラティン  ソー  ナーディガッチャティ
ratiṃ    so    nādhigacchati;
楽に    彼は   到達しない

タンハッカヤラトー    ホーティ
Taṇhakkhayarato      hoti,
渇愛の滅尽を楽しむ者で  ある

サンマーサンブッダサーワコー
sammāsambuddhasāvako.
正自覚者の弟子は


○直訳
天界の欲望における楽といえども
彼は到達しない(求めようとはしない)
正自覚者の弟子は
渇愛の滅尽を楽しむ者である


○一口メモ
昨日述べましたように、この詩は186番の続きです。
賢者は、欲望は楽の少ない苦とよく知って、
それは天界の欲望における楽でも、地上の欲望における楽でも本質は変わりなく、楽の少ない苦であることを賢者はよく知って、それを求めようとはしないのだと述べています。

Sammāsambuddhasāvakoは正自覚者の弟子、すなわちブッダの弟子は、渇愛(欲望)の滅尽、すなわち欲望がなくなること、それが本当の楽であることを知って、それを楽しむだと教えています。

世間の人々は欲望の滅尽が本当の楽だとは思いません。しかし、少し瞑想に慣れてくれば、身体も心もリラックスして、欲望から離れて、心が落ち着いた、穏やかの心の状態が楽の状態だと感じられると思います。慣れないうちは座る瞑想をすれば、足の痛みなどがあり、そのような気分になれない場合もありますが、すぐなれます。是非欲望から離れた楽の状態を体験してみて下さい。

天界の 楽といえども 及ばない 渇愛の滅の 楽に比べれば(187)


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200807/article_5.html
http://76263383.at.webry.info/200905/article_18.html
http://76263383.at.webry.info/201003/article_27.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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