あれこれを 知り捨てた 如来こそ 供養の菓子を 受ける価値ある<475>

○少年少女のためのスッタニパータ475.
・・・
悪口を言っても、怒鳴っても、
殴っても怒らない人がいます。
その人は阿羅漢か
それに近い人でしょう。


第3 大きな章 4.献菓経(スンダリカ・バーラドヴァージャ経)21.

○中村元先生訳
475
あれこれ一切の事物をさとって、
それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、
平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している
<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。


○正田大観先生訳
480.(475) 
〔あるがままに〕行知して、
彼の、彼此なる諸々の法(事象)が砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しないなら、
〔心が〕寂静となった者であり、執取の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者であり、
如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(23)


○パーリ語原文
479.
パローワラー     ヤッサ    サメッチャ    ダンマー
‘‘Parovarā       yassa     samecca    dhammā,
あれこれ       彼の     よく知って    諸法を

ウィドゥーピター   アッタガター    ナ    サンティ
vidhūpitā        atthagatā      na    santi;
破壊され       滅び去って     ない  存在し

サントー    ウパーダーナカイェー    ウィムットー
Santo      upādānakhaye        vimutto,
寂静の     執着の滅し         解脱した                  

タターガトー    アラハティ    プーララーサン
tathāgato      arahati      pūraḷāsaṃ.
如来は       値する      献菓に


○一口メモ
この偈の始めの言葉、「あれこれ」とは何でしょうか? あちらとこちらとか、よいものとよくないもの、あちらとは外的なもの、ことらとは内的なものと注釈書には書いてあります。また諸法とは、五蘊(色受想行識)、十二処(眼耳鼻舌身意、色声香味触法)と説明されています。中村先生はそれを「一切の物事」としております。

一切の物事は無常ですから、壊れます。一切の物事はある時、ある条件のもとでのみ存在しているのです。条件を構成する要素もそれぞれ無常ですから、その条件も一定ではありません。ある瞬間にのみ存在していると言えるので、次の瞬間は存在出来ないのです。それはすべて事柄について言えることです。如来はそれを知り尽くしているのです。ですから何かに執着することはありません。

何故、物事を知り尽くすと、執着しなくなるのでしょうか。知り尽くさないと、同じことを繰り返すのです。それは輪廻が良い例で、輪廻について知り尽くさないと、永遠に輪廻の苦しみを繰り返すことになります。輪廻について、知り尽くした人は輪廻の原因を取り除くことで、輪廻から解脱できるのです。

輪廻を知り尽くすために、ここで説明することは難しいですから、怒りについて考えてみましょう。怒りについて知り尽くした人は怒りを止めることが出来ます。怒りがどのようなものかよく分からない間は怒りの衝動が現れると、すぐ怒ります。怒りを止めることができません。

怒りが現れる前は、穏やかな気持ちでいたのに、怒りが現れると穏やかな気持ちがなくなり、苦しくなります。怒りは自分を苦しくさせ嫌な気持ちにさせるのです。ですから、怒りは止めた方がよいのです。しかし、他人から「馬鹿野郎」と言われたら、多くの人の心に怒りが現れるのです。ある人のせいで自分が嫌な気持ちになるのです。これは割りの合わないことです。「馬鹿野郎」と言われても怒らなければそのような気持ちにならないで済みます。ヴィパッサナー瞑想では、耳に聞こえる音はどんなものでも「音、音、音」で済ませるのです。「馬鹿野郎」も単に音だと思うならば、怒りは現れないでしょう。

また、このようにも考えることもできます。すべての生命は基本的に自由なのです。その人はその人が言いたいように言う権利があります。しかし、言ったことのその責任はその人が持たなければならないことはもちろんのことです。どんな行いにも業の法則が働いています。自分は「馬鹿野郎」とその人が言いたいのだなと思えばよいのです。そのために自分がそれに対して怒っていても、自分も怒り返さなくともよいのです。怒りで自分を嫌な気持ちにする必要がないのです。

どのように考えても、自分を不幸にする「怒り」を自分が辞めればいいのです。他人のせいでわざわざ自分を不幸にする必要はないのです。そのようによく知れば、心に「怒り」は存在しなくなるのです。

次にスマナサーラ長老の説法から怒りなくなった阿羅漢の話を引用します。
「ある日、あるバラモンがサーリプッタ尊者の頭を後ろから力一杯、殴りました。そうすれば尊者は怒って何か言うでしょう。それなら私は尊者と喧嘩することが出来ます。
『あなたは聖者、阿羅漢、煩悩が無くなっているなどと言われていますが、それはあり得ない、嘘でしょう。私が殴ったら怒ったでしょう』と。
しかし、バラモンの思惑は外れ、サーリプッタ尊者は歩くスピードも変えず、そのまま歩き続けます。後ろを振り向くことさえもしません。
バラモンは尊者が今にも怒り出すだろうと後ろから付いて行きますが何ごとも起こりません。これは一寸、普通とは違う、とバラモンは怖くなりました。
それでさっさと尊者の前に出て、土下座して謝りました。『何で謝るのですか』顔も知らない、初めて会った人です。
で、バラモンが『あなたをチェックするために後ろから思いっきり頭を殴りました。だから許してください』『そういうことでしたか。いいですよ』と許してあげました。

だから完全に自我の無い世界にいました。頭に何か当たった、そこで痛みが生まれている。で、終わり。痛みが生まれているのは事実です。
(痛みの)感覚は無常だからその内、消えます。たとえ怪我をしていてもそれもその内、無くなる、或いは手当をすれば治る。だから困る必要は無い。歩くスピードも変える必要もない。
逃げる必要もない。立ち止まって後ろを振り返る必要もない。

聖者の世界でも殴られたら痛みはありますが自我はありません。だから痛みはあっても悩みが無い、怒りが無い、憎しみが無い、恨みが無い。痛みはあります。」(以上引用終わり)


あれこれを 知り捨てた 如来こそ 供養の菓子を 受ける価値ある<475>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎5月30日(金)から6月5日(木)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサが関西ウェーサーカ祭及び熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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