信は最上の財である

ワン爺の独り言(2017.7.3.)
ブログの更新がしばらく停滞しましたが、また再開したいと思います。今日はSRKWブッダのホームページ「覚りの境地」の「理法」の150番「信は最上の財」を引用して学びます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou150.htm



(以下引用)

【信は最上の財】

信こそ世の最上の財である。 人は、信によって激流(=妄執)を超え円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るからである。

ところで、信の真実とは何であろうか? 人は、いかにして信を確立するのであろうか? 人は、どうして自らの信が正しいものであると知ることができるのであろうか? このことについて、私の知るところを記そう。 これはすべての覚った人が覚知するところのものである。

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人が法(ダルマ)へのあり得べき確かな信を確立したとき、かれ自身、信を確立したという意識が生じることはない。 そのような意識は生じないが、かれは法(ダルマ)への確かな信を確立したのである。 なんとなれば、それによってかれがまさしく解脱するゆえに、つまりその最終的な事実ゆえにそのことが証されることになるからである。 したがって、この法(ダルマ)への信は、解脱以前においてはそれを意識することはできないことであると知られるのである。

また、人は自分ではない他の人に対する根底の疑いを離れたとき、このあり得べき確かな信(信頼すること,不信を除くこと)を確立する。 そして、それもまた意識すること無しに為し遂げられることである。

しかしながら、人は敢えて信じようと意識しない限り、法(ダルマ)への信や他の人への信を確立することはとてもできないことであろう。 なぜならば、それが人というものであるからである。 それゆえに、やすらぎに至る道にまつわるそれぞれの信は日々に意識しつつ次第次第に心に定着すべきことであると知られるのである。

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正しく信じることは、ひとの覚りの種(=財)であり、この世における最上の富である。 しかしながら、この最上の富は、それが最上でありながら最上のものであると意識されないゆえに最上なのである。 なんとなれば、他人がそれを最上の富であると意識しないゆえにこの富を他人が横から奪うことは決してできないからである。(ゆえに最上の富は<最上の富>と名づけられる。)

こころある人は、世俗の信仰ということ無しにこのあり得べき無上の信仰(=信)を確立せよ。 なんとなれば、明知がこの信に結びついてついに無明を破るのであるからである。


(以上引用)


*ワン爺のコメント
今回の「理法」は、今の私にとって一番ぴったりとくるものはありません。
また、「なんとなれば、他人がそれを最上の富であると意識しないゆえにこの富を他人が横から奪うことは決してできないからである。(ゆえに最上の富は<最上の富>と名づけられる。)」という表現は面白いと思いました。
今年の1月25日に掲載したブログに「人が信じるべきことは『人は実はやさしい」ということです。』を書きました。
http://76263383.at.webry.info/201701/index.html

SRKWブッダの問題提起「信の真実とは何であろうか?」の回答は「人は実はやさしい」ということであると思います。
確かに、このことは多くの人々にとって、心の底から信じることはなかなかできないと思いますし、それができたら素晴らしいことだと思います。
ですから、SRKWブッダが指摘されていますように、「人は敢えて信じようと意識しない限り、法(ダルマ)への信や他の人への信を確立することはとてもできないことであろう。」ということだと思います。

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