ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第12章 道 2偈

2 風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように、ひとが明らかな知慧によって見るときに、諸の欲望の思いが静まる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
「風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように」という譬喩によって、「明らかな知慧によって見るときに、諸の欲望の思いが静まる。」ことが説明されていますから、解説する必要がないのかもしれませんが、一応対応を確認してみます。

「風」とは、外部刺激です。色・声・香・味・蝕・法の外部刺激が眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官を刺激するのです。

「塵」とは、欲望です。

「吹き上げられた」、眠っていた欲望が外部刺激によって顕在化するのです。

「雨」とは、「明らかな知慧」です。

さて、「明らかな知慧」とは何か? SRKWブッダは彼のホーム・ページの理法欄における「明知」の項で解説されておられるのだと思っております。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou114.htm

(以下引用)
【明知】

世において知るべきことを知るべきことであるとこころに知り、知るべきでないことを知るべきでないことであるとこころに知っている人。かれが明知の人である。かれは、ことに臨んで、見えないものを見てその真実のすがたを捉え、また聞こえない声を聞いてその真実の意味を知るのである。

明知は、学んで身につけるものでは無い。明知は、努力によって獲得するものでも無い。かといって、明知は、いわゆる素質と言うべきものにはあたらないものである。ただ明知は、それがあるときにかれにはそれがあるのだと確かに認められる「それ」に他ならず、その由来を過去・現在・未来に亘るかれ自身にも、また本人以外の何ものにも求めることはできない。それゆえに、明知は<明知>と名づけられるのである。

人は、明知によって道を見いだし、ついに究極の境地(=ニルヴァーナ)に至る。それゆえに、やすらぎを求める人は、自分ならざる何ものにも依拠することなく、ただ自らに依拠して、よく気をつけて世を遍歴すべきである。こころある人は、他ならぬ自らが自分自身の明知を信じ、自らの道のあゆみを浄くせよ。

人がまさしくこのようにして覚りの境地に至ったとき、かれは<明知>の真実について理解することになるのである。
(以上引用)





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