#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 15偈、15A偈〜15E偈

15 つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、情欲にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

(ダンマパダ7 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるように。

15A つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、怒りにうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15B つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、迷妄にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15C つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、慢心にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15D つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、貪りにうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15E つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、愛執にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

感興のことば(ウダーナヴァルガ)には、15偈の次に、15A、15B、15C、15D、15Eと五つ偈が続きます。内容は15偈の「情欲にうちひしがれる。」の部分が、怒り、迷妄、慢心、貪り、愛執に変化しているのみです。ですから、15偈を理解し、怒り、迷妄、慢心、貪り、愛執などの煩悩と言われるものが理解できれば、これらの偈をわかったと言えます。
さて15偈ですが、「この世のものを浄らかだと」思うことについて、私の過去のブログでは、世の中のものを主に肉体と考えて、肉体は不浄なものであるという記述を多くしてきました。

ゴータマ・ブッダの言葉にもそのようなものが多くあります。私は理解が浅かったということがありますが、ゴータマ・ブッダは、衆生が肉体の感覚に執着し、快楽を好み、お美味しいものに執着することが多いので、このように説いたのです。

しかし、この世のもの実体は、不垢不浄(ふくふじょう)なのです。よごれてもなく、浄らかでもないのです。それがわかれば、世の中のものに執著することがなくなります。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 13偈、14偈

13 大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、夜も昼もころげまわって寝て、まどろんでいる人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、愚かにも、くりかえし母胎に入って(迷いの生活をつづける。 

(ダンマパダ325 大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

14 つねに心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を知っている人にとっては、諸の(苦痛の)感覚は弱まってゆく。寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

修行者は、心のコントロールも大切ですが、食事について自制することも大切です。何故ならば、食事にたいする考え方、食事に対する態度はその人の心の現れだからです。

14偈の「寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く。」の意味は、寿命をたもちながら、徐々に老いるという意味です。

ダンマパダ325について、2008年10月、2009年8月、2010年6月に解説しました。興味のある方は参考にしてください。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_23.html

http://76263383.at.webry.info/200908/article_17.html

http://76263383.at.webry.info/200810/article_8.html




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 11偈、12偈

11 端麗な容貌によっても、動作を見ることによっても、いかなる人(の心)も識り得ない。この世ではよく身を慎しんでいる人のように見せかけて、(その実は)慎しみの無い人々が、その世を闊歩している。

12 まがいのものもあり、香煙をあびた耳輪のようなものもある。金のメッキがしてある半マーシャ(重量の名)の銅のように、或る人々はつき従う仲間をつれて歩き廻っているが、内心は不浄で、外側だけ立派なのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

衆生は、端麗な容貌や優雅な動作を望んでいるのでいて、人の心の状態に関心がないのです。ですから、端麗な容貌によっても、動作を見ることによっても、いかなる人(の心)も識り得ないのです。

仏は、外見には興味がありませんから、人の心がよくわかります。

「この世ではよく身を慎しんでいる人のように見せかけて、(その実は)慎しみの無い人々が、その世を闊歩している」ことがよくわかります。

世の中には、まがいのものが多いのです。内心は不浄で、外側だけ立派なのです。本物の内心は清浄なのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 9偈、10偈

9 諸の欠点を断ち、ターラ樹葉の尖(さき)のように根絶やしになり、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。

(ダンマパダ263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。)


10 欺いて、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ名前とかたちだけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

(ダンマパダ262 嫉みぶかく、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。) 


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「端正な人」について、以前次のように解説しました。
https://76263383.at.webry.info/200907/article_4.html

「端正な人」とはパーリ語の「サードゥルーパ」の訳ですが、「きちんとしていること。行儀や姿が整っていて、乱れたところがなく、立派でこと。」と辞書にあります。外見から判断される様子を示す言葉のようです。ですが、ブッダは「サードゥルーパ」は外見よりも、内面、心のあり方をについて述べられています。つまり、弁舌爽やか、容姿端麗ということではなく、嫉妬深く、吝嗇、狡猾な心を根絶して、除去し、怒りを吐き出した人が「端正な人( サードゥルーパ)」だと述べておられるのです。

これらの偈を読むと、論語の「巧言令色鮮なし仁」(こうげんれいしょくすくなしじん)という言葉と、老子の「信言は美ならず」(しんげんはびならず)という言葉を思い出します。昔の聖者、賢者と言われる方々は同じようなことを言っています。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 7偈、8偈

7 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制と柔和とが無いのでのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。 

8 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と柔和とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

(ダンマパダ9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。) 

(ダンマパダ10 けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

よほど鈍感でない人ならば、今は世界が大きく変わろうとしていて、また変わっていることに気がついているでしょう。それは地球レベルでも、人間の社会についても言えることです。
何を言いたいのかと言えば、ゴータマ・ブッダの時代では、出家して、解脱を目指す人はまれでした。しかし、今では、本人が解脱をする意思がなくとも、今は解脱しなければ生きづらい時代になっているのです。生きづらいことに甘んじている人々にとっては、それに気づかないでしょうが。

その上で、「黄褐色の法衣をまとおうと欲する人」とは、出家しょうとする人々ですが、今ではすべての人々です。人々は「自制と柔和」が必要なのです。そうではない人々は人間としてふさわしくないのです。そうでなければ、生きていくことが困難なのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 5偈、6偈

5 (経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執著しているのである。

6 思念して熱心に清らかな修行を行なっている人々は、ここで(自分が)いだき、あるいは別々の人がいだき、この世でいだかれ、またかの世についていだかれる一切の疑いをすべて捨ててしまう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ6・9 人々は対象に馳せ寄るけれども、その真髄には至らない。次々と新たな束縛を増やすのみ。灯火に落ち込む蛾のごとく、見るもの、聞くものにとびつくという仕方で、ある人々は対象に執著する、と。)

(ウダーナ5・7 三昧に入り、熱心に清浄行を行ずる者は、この世であれ、かの世であれ、自ら感ずる疑いにせよ、他人の感ずる疑いにせよ、すべての疑いを捨てる、と。)

(「原始仏典八 ブッダの詩Ⅱ 」講談社発行より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は5偈、6偈のそれぞれに、ウダーナ第6章の9と第5章の7に同様の趣旨の偈がありますので、それを引用しました。理解の参考にしてください。

5偈は、人々は見るもの、聞くものに興味を示し、執著し、悩み苦しむことになると説かれています。もちろん、そのような人々は覚ることはないことはないのです。

6偈では、見るもの、聞くものによって、心を汚されることなく、心を清らかにする人は、真実を明らかにして、すべての疑い(疑問、迷い)が無くなることが説かれています。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 3偈、4偈

3 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

4 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。


(ダンマパダ11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。) 

(ダンマパダ12 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は」、そもそも真実(まこと)が大切であることを知りません。それゆえに、真実(まこと)に達しないのです。

「まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は」、すなおな人なのです。このような人は、ついに真実(まこと)に達するのです。つま、覚りに至るということです。

以前、ダンマパダ11、12の解説にアンデルセンの童話「裸の王様」を話題にしました。少し前には、「忖度」という良い言葉が、世間の人々に汚されてしまいました。今回の偈はその実情を明らかにしています。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 1偈、2偈

1 太陽が昇らないあいだは蛍が輝やいている。しかし太陽が昇ると、にわかに暗黒色となり、輝かない。

2 そのように、如来が世に現れないあいだは、(仏教外の)思索者たちが照らしていた。しかし世の中が仏によって照らされると、思索者は輝かないし、その人の弟子も輝かない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

思索者たちとは、考える人々です。思索者は人の知恵(人智)で生きている人々です。

如来(=仏、ブッダ)は、考える人ではない、如来は仏の智慧(仏智)で生きているのです。

人々は、如来が現れないあいだは、人智によって覚ることができると思っていますが、仏があらわれると、仏智によって覚ることがわかります。

仏智は、化身(善知識、善友)によって、法の句として、この世に現れます。功徳を積んでいる人は、その因縁によって、その法の句を聞くことができます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 39偈、40偈

39 また悪いことをして、善いことをしないならば、悪いことをした人は、禍のもとを身に受けて、福徳を捨てて、この世で死を恐れる。___大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人のように。

40 善いことをして、悪いことをしないならば、善い人々が福徳のもとを昔(むかし)行なったのであっても、決して死を恐れない。___堅固な舟で河を渡る人々のように。 

以上第28章 悪

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ブッダの比喩はいつも素晴らしい。説かれたことが生き生きと理解できます。

大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人の恐怖はどのようなものでしょうか。舟は沈み、死を待つ以外にないのでしょう。

一方、善いことをして、悪いことをしない人は、堅固な舟で河を渡っているのですから、嵐が来ても大丈夫ですし、そのような人が舟で河を渡るときには嵐がこないのです。彼は快適な舟の旅を楽しんでいるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 38偈

38 善いことをしたならば、ひとは快(こころよ)く楽しむ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは快く楽しむ。人に知られずにしたことであっても、ひとは快く楽しむ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに快く楽しむ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、昨日掲載した37偈の「ひとは喜ぶ。」が「ひとは快く楽しむ。」に変わったものです。

「喜ぶ」と「快く楽しむ」とどう違うのか?

善いことをした時の気持ちは、「喜ぶ」とも「快く楽しむ」とも表現できますが、実際に自分が善いことをして、それを感じてください。もっと素晴らしい言葉が出てくるかもしれません。あるいはそれを言葉にできないかもしれません。しかし、何かがわかるはずです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 36偈、37偈

36 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

37 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、先日掲載した32偈の「その報いがあるのだから、ひとは憂える。」の部分が「悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。」となっています。

37偈は、33偈の「その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。」の部分が「幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。」となっています。

「悪いことをした報い」と「善いことをした果報」を、それぞれ少し具体的に述べたものです。

これらの偈を読むと、法界というものを想起せざるを得ません。

法界については、SRKWブッダの感興句「法界の存在」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana119.htm

(以下引用)

【法界の存在】

一大事において法界から法(ダルマ)が出現するということは、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているということである。そして、法界はこの世の悪行も決して見逃さない。それで、善き人は善き処に生まれ、悪しき者は死してのち地獄に堕ちる。

ところで、もし解脱という明らかな現象が無いならば、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているとか、法界はこの世の悪行も決して見逃さないなどとは言えないであろう。しかしながら、解脱がはっきりとした現象である以上、法界の存在とその働きを信じざるを得ないのである。如来は、荒唐無稽のことは説かない。如来は、知り得たことを知り得たままに説くからである。

(以上引用)





  

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 34偈、35偈

34 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

(ダンマパダ15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。)

35 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。

(ダンマパダ16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。悪いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいるでいるでしょうか、そんなことはないはずです。イライラ、ムシャクシャしているのです。それを忘れるために、酒を飲んだり、大騒ぎをしている人もいます。後悔して落ち込んでいる人もいるでしょう。犯罪を犯した人は捕まるかもしれないとビクビクして、不安です。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。つまり、ふたつのところで共に憂えることになるのです。ですから、悪いことはするべきではないのです。

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。善いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいます。なんとなく、心がうきうきします。善いことをして、よかったなと思います。善いことをした人の顔も声も態度も喜びに満ちています。このような人の周りにはやさしい生きものが集まってきます。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。こんな楽しいことはないでしょう。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 32偈、33偈

32 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。その報いがあるのだから、ひとは憂える。

33 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

32偈、33偈の偈も、ゆっくりと声をだして、少なくとも3度、読んでほしい。

悪いことをしたならば、ひとは憂える。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。
秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。
その報いがあるのだから、ひとは憂える。

善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。
人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。
その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。


これらは詩なのだから、その読んだほうがよいのです。少なくともブッダの偈はそうする価値があります。これらの偈を訳された中村元氏の訳はその任にたえるものです。

眼だけで読めば、頭だけで読むことになります。しかし、声を出して読めば、声帯がふるえ、身体が感じます。その声は空気をふるわせ、耳でも感じます。その響きは、世界にひろがります。ですから声を出して読んだほうがよいのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 31偈

31 この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。その果報があるのだから、安心しておれ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

例えば、不安になって、眠れなくなった時など、この偈を思い出してください。自分がした善いことを思い出せない人は、自分が赤ちゃんの時に、お母さんに微笑んだことを想像してください。お母さんはあなたの微笑みを見て、幸せになったのです。これはあなたの始めの善いことです。

もう一度、この偈を声をだして、ゆっくり読んでください。きっと心が落ち着いて、眠れるようになるでしょう。


この世で善いことをしたならば、安心しておれ。

その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、

遠いところでしたことであっても、安心するがよい。

人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。

その果報があるのだから、安心しておれ。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 30偈

30 悪いことをしたときは気をゆるすな。その悪いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、気をゆるすな。秘密のうちにしたことであっても、気をゆるすな。それの報いがあるのだから、気をゆるすな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

30偈で述べられていることは、ダンマパダ127(大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。)ということによります。

しかし、ダンマパダ173で、次のように述べられています。

「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。」

この偈は、以前は殺人鬼であったアングリマーラが、ブッダに出会い、懺悔して、善によってつぐない、解脱した事にちなんんで、説かれたものです。

「気をゆるすな。」とは、「懺悔して、善によってつぐなえ。」ということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 26偈〜29偈

26〜29 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに陥るあろう、___(1)親族の滅亡(ほろび)、(2)財産の損失、(3)国王からの侵略、(4)恐ろしい告げ口、(5)激しい痛み、(6)身体の傷害、(7)重い病い、(8)乱心、また(9)その人の家を火がすっかり焼いてしまう、(10)第十として、聡明な智力がなくなって(老いぼれて)、身がやぶれたのちに、悪いところ(=)地獄に生まれる。

(ダンマパダ137〜140 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに出会うであろう、___(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
感興のことば26偈〜29偈とダンマパダ137〜140の罰の順番は少しことなりますが、内容はほぼ同じです。ダンマパダ137〜140については、10年前の2009年4月6日にその解説を書きました。それを引用します。参考にしてください。
https://76263383.at.webry.info/200904/article_6.html

(以下引用)
 脅しで信仰を強要する宗教がかなりあります。例えば、異教徒の神を信じると地獄に落ちるとか、ある種の食べ物を食べると神の怒りに触れるとかいろいろあります。

 仏教には脅しはありません。もっとも仏教と名乗っている宗教団体はたくさんありますので、その中には、脅しで信仰を強要する団体もあるかもしれません。しかし、釈尊はそのようなことは、一切していませんし、そのようなことは一切言ってはいません。ですから仏教と名乗っていてもそれは、釈尊の教えと無関係の団体です。

 釈尊は真理を述べているのです。その真理は私たちが幸せになる教えなのです。そして、それをよく理解して、実践するように述べられています。決して理解せずに、信じろとは言いません。今回の詩の内容についてもその通りなのです。私たちは直ぐには理解できない所もありますが、よく考えれば分かることなのです。

 私が分かる範囲で説明しましょう。「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」とうなるでしょうか。私たちの心には良心と言われるものがあります。分析すると、慈悲喜捨の心です。すなわち、人々が幸せになってもらいたいという心、困っている人を見ると助けたいと思う心、人の喜びに共感する心、物事を分け隔てなく平等に見る心です。これらの心は人間にはあるのです。もちろん、その心は育てられてなければ小さく、弱いものですが、あるのです。しかも、欲や怒りや無知の心もありますので、その機能は抑えられている場合が多いのです。しかし、良心と言われる慈悲喜捨の心はあります。

 「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」、その良心は、自分を責めることになります。自分の良心に責められた自分の心は、自分の身体を攻撃します。それは、身体の痛みや、傷害、病気など、いずれかの現象をもたらすのです。自分の良心に責められた自分は何事にも自信を持って行動できません。いつも何かやましい心で行動するのです。心は暗くなります。そうすると仕事に失敗するようになり、友達や家族や親族ともうまくいきません。それらの人々の間で喧嘩になるかもしれません。喧嘩に多い、暗い家族の財産は増えることはありません。面白くないので、大酒を飲んだり、馬鹿な無駄使いをしたりするからです。もう詳しく書くことはないでしょう。

 釈尊は、暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうという不正を働く人々の行為の結果を分かりやすいように十にまとめて示してくれているのです。不正を働くと私たちの良心が痛むのです。そうならないように、不正を働かないように注意してください。
(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 23偈、24偈

24 僅かでも悪をしたならば、つねに来世に苦しみを生じ、大きな禍を生じることになる。___毒が腹の中にあるようなものである。

25 僅かでも善いことをしたならば、来世に安楽をもたらし、つねに大きな福楽生じることになる。___穀物が積もり集まったようなものである。(やがてすばらしい果実を生ずるであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人間の行為は、潜在意識に記憶され、自分が忘れていまっていても、それがいつも支配しているということです。

僅かでも悪をした人は、意識できなくとも、それがいつまでも気になって、その人の思いや行為に影響をあたえますから、暗くなり、楽しみを削減します。それは大きな禍です。生まれ変わってもよいことがあるはずはありません。

逆に、僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくなります。それはその人の人生によい影響をあたえます。生まれ変わってもその影響は続きます。

人間は、良いことも、悪いこともしますから、その場合はどうなるのでしょうか考えてください。

僅かでも悪をした人は、暗くなり、楽しくないのですから、また悪をする傾向になります。そのため、悪を続けるのです。それが問題なのです。

僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくありますから、善をする傾向になりますから、問題ありません。

僅かでも悪をした人は、勇気をだして、懺悔してください。

懺悔については、SRKWブッダの理法「懺悔の根底にあるもの」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou315.htm

(以下引用)
【懺悔の根底にあるもの】
懺悔(さんげ)の根底にあるものは、「自分は間違っているのではないか?」と言うことではない。懺悔の根底にあるのは、「自分は恥 ずかしいことをしているのではないか?」と言うことである。他ならぬ自らの行為について省察し、心に問うて、その真実を明からめたとき、解脱の機縁を生じ る。

ただし、修行者は懺悔によって解脱を果たすわけではない。解脱と同時に──おそらく解脱が一瞬早く生じその後──懺悔を生じ得るということである。
(以上引用)




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 21偈、22偈

21 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。 

22 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

(ダンマパダ117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。) 

(ダンマパダ118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、11月1日です。111は、ラッキー・ナンバーというそうです。今日は良いことがあります。
さらに、1111は、エンジェルナンバーといって、幸運の数字というようです。
今までは知りませんでしたが、ユーチューブを見て知りました。

「この世には、何一つ偶然はない。」といわれますから、このようなことを知って置くと、このような数字を見ると、心が明るくなって、本当に本当に良いことがあります。それがたとえ悪いことのように見えても、それが良いことの前兆なのです。

今回、掲載した偈に戻ると、人は悪いことをするとはあります。しかし、それが悪いことだと気がついたら、勇気を出して止めてください。21偈に書いてある通りなのです。

また、善いことをしたら、それを繰り返してください。それが善い習慣になり、あなたに幸運をもたらします。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 19偈、20偈

19 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭(あ)うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭うのである。 


20 まだ善い果報が熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭(あ)うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。

(ダンマパダ119 まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭(あ)うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。) 

(ダンマパダ120 まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭(あ)うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

世の中が、単純な因果法則に支配されているならば、人は悪いことをしないであろうし、善いことばかりをするでしょう。例えば、火の中に手を入れれば、熱いし、火傷をするのです。これはすぐわかりますから、人はそのようなことはしないのです。

しかし、世の中のことは、それほど単純ではなく、多くの原因があります。見える原因も、見えない原因もあります。直前の原因もありますが、過去の原因もあります。近い原因も、遠くの原因もあります。これらの原因がいろいろな織り成して、いろいろあ結果が現れます。また、その結果が原因になっていきます。世の中のことは、因縁によってなりたっていて、因縁によって生まれ、消えていくと言うのです。単純ではないということです。(このことがよくわかっている人には単純にみえますが。)

だが不思議なことに、結局は悪人はわざわいに遭い、善人は幸福(さいわい)に遭うのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 18偈

18 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。

(ダンマパダ69 愚かな者は、悪いことを行っても、その報(むく)いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、2009年12月20日に書いたダンマパダ69の解説記事を引用します。
https://76263383.at.webry.info/200912/article_20.html


(以下引用)

〇超訳の試み

悪行為の結果が現れるまで
愚か者はそれを蜂蜜のように思う
しかし、悪行為の結果が現れた時
愚か者は苦を受ける


〇子供のためのダンマパダ

だれかさんは弟のケーキも食べました
おいしくて得したと思いました
夜になってお腹が痛くなりました
だれかさんは後悔しました

◯一口メモ

 この詩が、愚か者の章にあるのは理由があるのです。行為にはその結果があります。しかし、愚か者は行為の直接的な結果を予想するのですが、それに関するいろいろな結果を予想できないのです。実は行為に関連するいろいろな結果を予想ができない人を愚か者というのです。

 今回の「子供のためのダンマパダ」の例で説明しましょう。誰かさんは、自分のケーキを食べ、おいしくて、もっと食べたくなったのです。弟のケーキがあったので、人のケーキだと分かっていたのですが、それを食べました。その時、誰かさんは、弟はケーキがないと泣くかものしれませんと思いました。そんなことはどうでもよいことにして食べました。また、弟のケーキまで食べれば食べすぎでお腹が痛くなるかもしれません。しかし、それも無視しました。さらに、弟の分のケーキを食べてしまえば、お母さんに怒られるかのしれません。そのようのことを考えずに、人のケーキを食べてしまったのです。このような人を愚か者というのです。

 上の例は、私たちが普通に考えれば、予想できるものですが、お釈迦さまは、超越した智慧で、生命の死後の世界における結果についてもその大筋を教えておられます。私たちはそれを実証できないのですが、もしそのような世界があったとしても、心配のない生き方をすればよいのです。

 もし、この世で悪いことをすると、この世で悪い結果になるばかりでなく、死後も悪い結果になると教えています。人殺しなどをすると地獄に行き、想像もできないほどの苦しみにあうこと、しかも一度地獄に落ちるだけでなく、何回も地獄に行かなければならだと教えています。ですから、絶対に人殺しなどしてはいけないのだと知るべきなのです。

 一般に、悪人と言われる人は愚か者なのです。自分の行為の結果が分からないか、無視しているのです。愚か者は善因善果、悪因悪果の因果法則を否定したり、無視しているのです。愚か者になりたくないのであれば、因果法則にしたがって、悪行為をしないで、善行為をすべきなのです。

(以上引用)

以上の解説は、因果法則のみを語っていましたが、「悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、」というのは、因果法則を含んで、もっと大きな法則(因縁の法則)があるからなのです。

人が覚るという事柄は、一大事の因縁によって起こるのです。功徳を積み、心を浄らかにすることが大切です。