#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 4偈

4 実に学識ゆたかに種々の状況をよく考慮する人々につき合うべきである。けだし、かれらの説く善いことばを聞いたならば、その人々が(そこに)いなくても、すぐれた境地に達し得る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

学識ゆたかで、状況をよく考慮する人々は、物事の真実をよく理解しているので、危険にあうことがなく、安全に穏やかに生きることができます。

そのような人々の説く言葉を聞いて、学ぶならば不幸になることはありません。また、ある場合には、覚りの境地に達し得るのです。

感興のことば(ウダーナヴァルガ)を学ぶことも、そのような人々の説く言葉を聞くことでありますが、身近なそのような人(善知識)の言葉(法の句)を聞いて、解脱するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 3偈

3 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交(まじ)われ。 

(ダンマパダ78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

以前は、このように考えることは、人を差別するようで納得できませんでした。

しかし、ふつう人が付き合える人数はそれほど多くありませんから、悪い友や卑しい人と付き合う必要はありません。善い友や尊い人と交わればよいのです。自分が善い友であり、尊い人になれば自然にそのようになります。

また、自分が善い友であり、尊い人になれば、相手の人も善い友、尊い人になります。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 2偈

2 明らかな知慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持のよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。

(テーラガーター1019 聡明な人は、___信仰心があり、気持のよい、素行のよい、明らかな知慧をそなえ、学識ある人と、つき合うべきである。立派な人と交わるのは、しあわせである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈の「明らかな知慧のある人」について、この偈と同趣旨のテーラガーター1019では、「聡明な人」と述べられています。SRKWブッダの「感興句」に「聡明なる人」がありますので、それを引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou097.htm

(以下引用)
【聡明なる人】



聡明なる人は、未来に起こるであろうことがらについてあれこれと想念をめぐらせることがない。また、かれは、すでに起こってしまったことについては、それが何であれ、それがそのように起こったことを善しとし、それがそのように起きなかったとしてもそれを善しとするのである。

聡明なる人は、かれがすでに為し終えた行為について他の人から非難や賞賛を受けても自分を卑下することが無く、慢心を起こすことも無い。なんとなれば、かれにとって、自分自身は卑下とも慢心とも無縁の存在であるからである。それゆえに、かれは如何なる状況に身を置いても、自らの存在意義について可とか不可とか分別して考えず、自分と誰かとをくらべることもない。かれは、自分自身を完全だとは見なさず、しかしだからといって他の人もまた不完全なのであると断じることも無い。かれは、他の人から見ればときに争いの相を示すように見えることがあるかも知れないが、かれ自身は決して争いを好んではいない。なぜならば、かれは、自分を含めた人々(衆生)が自分ならざる何かに突き動かされた(無我なる、=人無我なる)存在であることをこころに知っているからである。

こころある人は、たとえ世俗にあっても、いとも聡明なる人であれ。けだし、人は聡明さによってやすらぎに至る道を見い出すのであるからである。@
[補足説明]
いわゆる結果オーライは、聡明なるこころの帰結であると知るべきである。
(以上引用)

もう一つ、「学識」について、SRKWブッダは理法「学識によって」でつぎのように述べておられます。
http://srkw-buddha.main.jp/udana079.htm


(以下引用)
【学識によって】



人々は、明知によって道を見い出し、学識によって道を究める。

人が明知によって識り分けた正しい教えを聞きおわって、世間における欠点のある言説、あるいは欠点のない言説を知り尽くし、根本の疑惑を超えつつあるとき、「それ」がまさしく起こって世の一切の疑惑を超えたならば、かれはついに解脱する。

学識に欠ける者が、世間の種々さまざまな言説に翻弄される。学識豊かな人々は、自らの道の歩みを全うして世間の風説によろめくことがない。

聡明な人は、自らの学識によって真実の真相を知り極めよ。 心根の善い、学識豊かな人々とつきあい、自分をも他人をもこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと近づけ至らしめよ。
(以上引用)







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 1偈

1 明らかな知慧のある人が友達としてつき合ってはならないのは、信仰心がなく、ものおしみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。

(テーラガーター1018 聡明な人は、___二枚舌をつかい、怒り易い人、けちな人、そして(他人の)破滅を喜ぶ人とつき合ってはならない。悪人と交わるのは、わざわいである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

信仰心がない、ものおしみ、二枚舌、これらのことは人間として成長していない間は、それもやむをえないと思えるのですが、「他人の破滅を喜ぶ」ということはあってはならない。

そのような感情を持つ人とは、つき合わない方が良いのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 30偈

30 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。 

(ダンマパダ108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。)

                         以上第24章 広く説く

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、「真正なる祭りの功徳の」という言葉を補って、意味が通じるように訳されていますが、最後に「行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。」と書かれていますから、意味がわかります。

補われた言葉「真正なる祭り」の意味について、岩波文庫の訳注には「人間として正しい実践をいう。」としてあります。つまり「行ないの正しい人々を尊ぶこと」です。

ここで少し注意すべきは、行ないの正しい人々はもちろんすぐれているのですが、行ない正しい人々を尊ぶことがすぐれていると述べられていることです。

すなわち、火の神を尊ぶことよりも、行いの正しい人々を尊ぶことがすぐれていると述べられているのです。

「行いの正しい」とはどのようなことか、すでに随所で述べられています。改めて考えてください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 29偈

29 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、真理をよく説いた人(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

7月21日に掲載した20Eは次の通りです。

「(愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、教えをよく説いた人(の功徳)の十六分の一にも及ばない。」

今回の偈は、前半部分の違いの他に「教えをよく説いた人」が「真理をよく説いた人」に変わっています。

「教えをよく説いた人」も「真理をよく説いた人」もブッダ或いは、ブッダの化身(善知識)です。













#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 26偈、27偈、28偈

26 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、生きとし生けるものどもを憐れむ(功徳)の十六分の一にも及ばない。

27 (訳文は26に同じ。)

28 (訳文は26に同じ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

7月20日に次の偈を引用しました。
https://76263383.at.webry.info/201907/article_20.html

「(愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、生きとし生けるものどもを憐れむ(の功徳)の十六分の一にも及ばない。」

今回引用した偈と同様に、「憐れみ」について述べられています。

「あわれむ」は「憐れむ」とも「哀れむ」とも書きますが、いずれにせよ、二つのことに注意する必要があります。自分を相手より優位に立っているという心があるかどうか、もう一つは相手の心に負担を掛けていないかどうかという点です。

純粋な憐れみの心は相手との対等心です。相手と私は同じなのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 25偈

25 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、7月18日に掲載した次の偈と趣旨は同じです。慈しみの心(の功徳)の大きさについて述べられているのです。
https://76263383.at.webry.info/201907/article_18.html

「20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。」

その時の「法津如来のコメント」では、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用しましたが、「慈悲喜捨」は四無量心とも呼ばれます。その意味は、その心の大きさが無限に大きいからです。

その心が無限に大きいことをイメージしてください。もちろん、自分の体を枠を超えて広がっているのです。そして宇宙の果てを超えて広がっていくのです。これはどういうことでしょうか?



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 24偈

24 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、戒しめを信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は7月18日に掲載した次の偈と趣旨は同じです。戒しめを信じること(の功徳)の大きさについて述べられているのです。
https://76263383.at.webry.info/201907/article_17.html

「(愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、戒しめを信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。」

「戒しめを信じること」とは、戒に帰依することであります。六祖慧能ブッダは六祖壇経の中で、戒に帰依するとは、仏法僧に帰依することだと述べています。すなわち、覚(目覚めること)と正(ただしさ)と浄(浄らかさ)に帰依することです。それを無相三帰依戒といいます。









#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 21偈、22偈、23偈

21 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、仏を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。

22 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、ダルマ(法、真理)を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。
  
23 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、サンガ(教団、僧衆)を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回、掲載しました3偈は、7月17日に掲載しました次の3偈と趣旨は同じです。
https://76263383.at.webry.info/201907/article_16.html

17 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く少量の)食物を摂(と)るようなことをしても、仏を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

18 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、ダルマ(法、真理)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

19 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、サンガ(教団、僧衆)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

その日(7月17日)は、仏法僧の本質について、つぎのようにコメントしました。
「仏とは目覚めること、法とは正しいこと、僧とは清浄という意味である。」

もう少しわかりやすく説明すると、「目覚めること」とは、自己の中にいる仏に気づくことです。
「正しいこと」とは道理に従っているということです。
「清浄」とは、心に対立がないこと、心に悪意がないこと、心が静かであることです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20E偈

20E (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、教えをよく説いた人(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「教えをよく説いた人」に関連して、「みごとに説かれたこと」とは何か? スッタニパータ450偈を引用します。

立派な人々は説いた──
[Ⅰ] 最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)
[Ⅱ] 正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
[Ⅲ] 好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
[Ⅳ] 真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。

この偈に対して、わたしは次の短歌でまとめました。
善説法 正しいことば 愛ことば 真のことば これらが最高


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20B偈、20C偈、20D偈

20B (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、生きとし生けるものどもを憐れむ(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

20C (訳文は20Bに同じ。)

20D (訳文は20Bに同じ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日は、「慈しみの心」を理解するために、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用しました。「慈しみ」は「慈悲喜捨」の「慈」に当たります。

さて、今回の「憐れみ」とは、「慈悲喜捨」の「悲」に相当するのです。
昨日の説明では次のように書かれていました。

悲:世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。高ぶり(妄執)を制した其の心。

もう少し、わかりやすく言えば、他人の苦しみや悲しみを知って、それを自分の苦しみとして、その苦しみや悲しみを無くそうとすること。その際、そのことを相手には知られないようにすることも大切です。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20A偈

20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「慈しみの心」を理解するために、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou001.htm


(以下引用)

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。



慈:慈しみの心。相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。



悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。



喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。@



捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。

最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。

[補足説明]

無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

(以上引用)







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20A偈

20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「慈しみの心」を理解するために、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou001.htm


(以下引用)

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。



慈:慈しみの心。相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。



悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。



喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。@



捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。

最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。

[補足説明]

無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

(以上引用)







感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20偈

20 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、戒しめを信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「戒しめ」とは何かを知るために、SRKWブッダの理法「戒律」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou051.htm

(以下引用)
【戒律】


戒律とは、すでに覚りの境地に至った人ならば、そのように自らを戒め、そのように自らを律するであろうという行動の自律規範を広く世間に明らかにしたものである。
『戒』は、覚りの境地に至った人が、覚りの境地に至ったその瞬間から皆そのようにしか行動しなくなるということを列挙したものであり、世俗の行動様式、あるいは個人的な好悪、善悪、および世間的な道徳にもとづく行動規範とは一切無関係に、覚者としての根元的な自律規範に照らして自ら世に現前せしめるところの戒めを指す。これを<具足戒>とも名づけ、覚りの境地に至った人は皆、それを等しく具有し、そのようにしか行動できなくなるそれを指していうのである。

また、『律』は、覚りの境地に至った人が、修行集団生活(サンガ)および一般社会生活に関わるときに敢えて自ら律すべき行動規範を列挙したものである。

すなわち、戒律とは、仏弟子がとるべき行動の原理・原則にあたるものである。

〔行動原理〕
「いつ」「どこで」「誰が」行っても所定の効果,現象,結果を現出するもので、現象世界の本質的働きから来るもの。好む好まざるにかかわらず、誰でも従わざるを得ないもの。また、自分自身が後悔しないためにもそれに従って行動すべきそれ。これが、行動原理である。

〔行動原則〕
人が世界においてよりよく行動するために必要な準原理であって、現象世界の本質として本来的・根元的に定まっているものではないが、皆がこれに等しく従うことによって、互いに安全に、安心して、都合良く行動できる便宜上の規範となるもの。あくまでも、人間の公的な都合で決めた便宜上の約束事。なお、これは閉じられた社会集団のなかにおいてどのようにでも決められる性質のものであるため、国や文化の違いによって具体的な内容に異なる点を生じる場合がある。これが、行動原則である。

ところで、原理・原則の大事なところは、それらに反した行為はその時点で既にダメであるということである。なぜならば、原理に反すれば命を失うかあるいは命を縮めることが必定であり、また原則に反すれば罪に問われるからである。いずれにせよ、行き着く先は破滅である。すなわち、原理・原則とは人が後悔しないためにとるべき行動のバロメータなのである。なお、バロメータとは、行動の善し悪しを前もって分別するための基準ではなく、行動の妥当性を事後において本人が納得するために役立つ尺度を予め与えるもののことである。例えば、世間的にも、「お酒がいつでも美味しく飲めることは心身の健康を確認するバロメータだ」などと言われる。その意味するところは、もしあるときにお酒を飲んでそれが美味しくないと感じることがあったとするならば、そのときはすでに健康を大きく害しているのであると考えられ、それは健康な生活を営む上で本来あってはならないことだと言うことである。つまり、お酒が好きな人にとって、お酒はいつでも美味しく飲めなくてはいけないことなのであり、そうであることがその人が健康であることを裏付けているのである。



したがって、いつ何どき、それを調べても、常に「良」と判定されるべきものがバロメータに他ならない。したがって、もし現在、そのような何かのバロメータにおいて「否」と判定されるような事態に陥っているのであるならば、もう既に回復が困難な状態までおかしくなっていると考えなければならないのである。仏弟子がたもつべき戒律も、それと同様に考えるべきものであり、戒律を犯すということは、その意味であってはならないことなのである。すなわち、覚りの境地に至ることを目指す人が、仏弟子としてたもつべき戒律を図らずも破ってしまうというときには、すでにその人は仏弟子としての資格・資質を疑われるくらい異常な状態に陥っていると考えなければならない。

よって、戒律とともに仏道修行に勤しむとは、

「いつ何どきに戒律に照らしても、自ら恥じるべき行為が無いことを常に確信できる状態で修行すること」

を指しているのである。そして、そのような戒律をたもつ究極の状態こそが覚りの境地であり、この境地においては、

「何についても、最初も良く、中程も良く、終わりも良い」



行為を為すに至るのである。それは、

「自らの行為をいつ何どきに振り返っても、常にそれが後悔の無い、善き行為であったことを、こころに嘘いつわり無く楽しむ境地」



に他ならない。

自ら仏道を歩んで、不滅の安穏を目指す仏弟子は、戒律についてはこのように理解すべきであり、このように理解しなければならない。

(以上引用)








 

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 17偈、18偈、19偈

17 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、仏を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

18 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、ダルマ(法、真理)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

19 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、サンガ(教団、僧衆)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。
 
(ダンマパダ70 愚かなものは、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く少量の)食物を摂るようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏、ダルマ(法、真理)、サンガ(教団、僧衆)とは何か?

慧能ブッダの「六祖壇経」には、仏法僧について次のように書かれています。

「仏とは目覚めること、法とは正しいこと、僧とは清浄という意味である。」





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 16偈

16 百年を満たすほどのあいだ、林の中で(祭祀の)火の神につかえるのと、また己(おの)が身を修養した一人の修行者を一瞬間でも供養するのとでは、その修行者を供養するほうがすぐれている。百年祭祀(まつり)を営むのは、そうではない。

(ダンマパダ107 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を皆さんはどのように読みますか?

目の前の困っている人を助けることと、目に見えない架空の火の神を助けるのとどちらがすぐれているのかと考えました。

火の神は、神様ですから助けなくとの大丈夫です。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 15偈

15 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

(ダンマパダ114 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「不死」という言葉がでているダンマパダとスッタニパータの偈を幾つか引用します。

(以下引用)

ダンマパダ21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

ダンマパダ374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。

ダンマパダ411 スッタニパータ635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

スッタニパータ228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

(以上引用)

ニルヴァーナ(涅槃)は、それを体得していない人々には理解できないことですから、それを理解できない人々の理解できない「不死」という言葉をつかって表現するのです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 14偈

14 最上の境地を見ないで百年生きるよりも、最上の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「最上の境地」とは、すでに9偈、10偈、11偈、12偈、13偈で述べたようなような「不動の境地」、「没落するこのとがない境地」、「塵汚れにない(無垢の)境地」、「「塵汚を離れた境地」、「見難い境地」などです。

「覚りの境地」や「解脱の境地」と言ってもよいでしょう。

これらの境地は解脱によって得られると語るのは仏教だけであります。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 13偈

13 見難い境地を見ないで百年生きるよりも、見難い境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「見難い境地」とは何か?

これを理解するために、ダンマパダの36偈を引用します。

「心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。」

そうです。心が極めて見難いのです。ですから、その心を守ること、すなわち心を制することも極めて難しいのです。

また、心を守ることができると「法の句」を聞くことができます。
「法の句」を聞いて、知る境地が見難い境地なのです。それは最上の安楽なのです。
ですから、「見難い境地を見ないで百年生きるよりも、見難い境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。」