#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 79偈

79 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の感受作用の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「諸の感受作用の消滅」の感受の消滅について、この章の69偈のコメントで次のように説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_8.html

「一切の感受は消滅する」とは、感覚はあるが、快や不快を感じないということです。これにともなって、敵か味方か、善か不善かなどが問題にならないということです。また欲や怒りが現れなくなるのです。

一切の感受が消滅すると、彼岸に達して(=完全になって)、かれの疑惑はすべて消え失せるのです。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 78偈

78 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の因縁の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

昨日掲載した77偈では、物事は因縁にもとづいて起こることが説かれていました。

そうすると、「諸の因縁の消滅に近づくとき」とは、物事は起こらなくなります。

それは、苦しみや喜びの消滅です。大方の方はそんなのつまんないと思われるでしょうが、

そこには今までとは異なる安らぎ、安心、静けさ、楽しみなどがあります。

もちろん、すべての疑惑は消えるのです。

人間の本性はやさしいと信じてよいのです。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 77偈

77 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、物事が因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

瞑想については昨日説明しました。

「これらの徳が現れるとき」・・・修行の結果が現れるときという意味です。

「物事が因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき」の部分は、76偈では「苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき」になっていました。

「苦しみ」は「物事」の一つですから、物事が因縁にもとづいて起こることがわかれば、苦しみも因縁にもとづいて起こることがわかります。

しかし、物事が因縁にもとづいて起こることはわかることは難しく、多くの場合、苦しみが因縁にもとづいて起こることがわかってから、わかる場合が多いでしょう。

さて、因縁についてですが、辞書などには、「物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こること。」などと説明されています。
しかし、因と縁の区別も難しく単純には理解されにくいものなのです。

ただ、ここで言える重要なことは、物事は多くの縁(要素、条件)で構成されていて、そのうちの一つでもなければ、その事柄は存在しえないことを知ることです。

ですから、苦しみも喜びも同様です。苦しみは一つの縁をなくせば無くすことができ、喜びは多くの感謝すべきことでなりたっているのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 76偈

76 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

この偈における「瞑想」と訳された言葉は、瞑想と訳すよりは修行と理解したほうがよいのです。

今回はこのことのみをコメントします。それ以外の言葉については明日以降で説明します。

瞑想について、SRKWブッダは最近出された著書「仏道の真実++」の「具体的な覚りの機縁(広義)」において次のように説かれております。

(以下引用)
● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神 秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは 無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食 物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とは ならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。もちろん、 酒を飲むと日常を離れた独特の精神状態となるのは確かである。この状態にある者どうしは親しくなるが、それは酔っている間のことに過ぎない。酔いが覚めれば親しさも元 の木阿弥である。また、これによって暴力的な事件が起きることもある。実例を挙げる までもなく、酒の席での失態は多くの人が経験していることであろう。そして、酒の本 当の恐ろしさは、止めることが極めて難しいということである。どんな嫌な目に遭って も、人々は次の酒宴を楽しみにしてしまうのである。同様に、瞑想は人に何ももたらさ ない。ただ興味深い神秘的な現象を味わうだけのことである。瞑想を解けば、素晴らし い境地も元の木阿弥である。瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑 想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。
(以上引用)

この文章は、瞑想を熱心に行っている修行者には、ショックなことではあろうと思われますが、この際、この文章を正しく理解してください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 75偈

75 バラモンにとってこれほどすぐれたことは、またと有り得ない。心を快楽から遠ざけるにつれて、かれの意(おもい)が退くのにつれて、苦悩が静まる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「バラモンにとってこれほどすぐれたことは、またと有り得ない。」の、「これほどすぐれたこと」とは、「心を快楽から遠ざけるにつれて、かれの意(おもい)が退くのにつれて、苦悩が静まる。」です。

「心を快楽から遠ざけるにつれて」とは、快楽は「毒入りの饅頭のようなものだ」とわかってくると来るというような意味です。

余談ですが、砂糖、特に精製された「砂糖は毒である」と知っておいた方がよいのです。

さて、「かれの意(おもい)が退くのにつれて」とは、「あれこれ考えることをやめる」というような意味です。
このようなことがあると、苦悩が静まってきます。

しかし、まだ解脱は起こりません。功徳を積むなどの因縁があり、善き友と遭遇し、法の句(覚りの智慧)を聞き、解脱することになります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 74偈

74 太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

(ダンマパダ387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

太陽の昼のかがやきは誰もがわかります。すべての生命は夜にも太陽の恩恵を受けていますが、夜には見えません。

月は昼にも存在しますが、太陽が明るすぎて見えません。月が夜に照らすのは、太陽が沈むからです。

武士が鎧を着てかがやくのは、武士がかがやいているのではありません。鎧がかがやいているのです。

「バラモンは瞑想に専念してかがやく。」、この場合のバラモンは、真のバラモンではありません。身分制度におけるバラモンです。バラモンが瞑想してかがやくように見える人は錯覚をしているのです。

「ブッダはつねに威力もて昼夜に輝く」と見える人はブッダを信じる人です。愚かな人々にはその輝きは見えません。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 73偈

73 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、かれは生まれと老いと死とを超えるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

ブッダは、人生の苦しみは、生まれること、老いること、死ぬことであると説かれておられます。

生まれることが苦しみであることは、わかりにくいかもしれません。そこで、ある人は赤ん坊が狭い産道を通るときが苦しいのだと言います。それもありますが、それ以上に、生まれるとそれからの人生で多くの苦しみが待っているということです。

青春時代は夢や希望ばかりではありません。その裏には、不安や挫折、絶望などがあります。壮年時代には、労働、責任、人間関係、ストレス、病気などがあります。すぐに高齢、後期高齢が待っています。それらは苦しみであり、恐怖なのです。

老いることが苦しみであることは、誰もがよくわかるでしょう。老いると身体のあちらこちらが弱くなって、痛みも現れもあらわれます。身体だけではなく、心も弱くなり、もの忘れなどもはじまります。死が近づいているのを感じるのです。それらは苦しみであり恐怖なのです。

「かれは生まれと老いと死とを超えるであろう。」とは、どういうことでしょうか?

解脱した彼は、凡夫が苦しみや恐怖と感じる生まれと老いと死に対して、苦しみとは感じないし、恐怖と感じないないということです。むしろ、楽しみと感じ、喜びと感じるのです。

それは解脱すればわかりますが、苦しみや恐怖は、真実を知らせる鈴の音のように思えるのです。それは楽しみです。そして、それらの真実がわかった時は、喜びであり、満足なのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 72偈

72 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、かれの束縛の絆(きずな)はすべて消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前回の71偈の「一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。」の部分が、今回は「かれの束縛の絆(きずな)はすべて消滅するであろう。」となっていますが、意味は同じです。

「一切の煩悩の汚れ」が「かれの束縛の絆(きずな)」なのです。

例えば、怒りという煩悩を考えましょう。怒りが現れた人は怒りに束縛されます。かれは穏やかな幸せな気分で居たくともそれはできません。

欲望という煩悩でも同じです。あるものに対する欲望が生まれた人には、どんな美しい風景のなかに居ても、その風景を楽しむことはできません。その人はその欲望に束縛されているからです。

しかし、真理を観ずることができるようになれば、かれの潜在意識は束縛の絆(きずな)は幻想であることを知るのです。それがわかれば束縛の絆(きずな)は消滅するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 71偈

71 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「真理を観ずるかれにとって、一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。」という言葉は重要です。

煩悩は悪いものだからこれを無くそうと思っても、無くすことははできないのです。煩悩は潜在意識の働きです。顕在意識ではどうすることもできないのです。しかし、真理を観ずることができれば、一切の煩悩をなくすことができます。

真理を観ると、潜在意識が納得するのでしょう。煩悩が自分の自由を拘束して、苦しめていることを知るのです。同時に、煩悩がその真実に気づかせてくれたことを知るのです。

そのことを、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と言うのです。しかし、誤解しないように「煩悩=菩提(覚り)」ではありません。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 70偈

70 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の縁は消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈の前半は前回の偈と同じです。すなわち解脱してニルヴァーナ(涅槃)に達したバラモンはということです。

彼は、真理を観ているので、「一切の縁は消滅する」ということです。

「縁」とは、助力する、援助するという意味です。

ということで、解脱した、すなわち覚ったかれは、一切の助け、援助が必要なくなるということです。

別の言葉で言えば、縁は有為の事柄でありますが、ニルヴァーナ(涅槃)は無為の事柄(?)であります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 69偈

69 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の感受は消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前半の「もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、」は、前回の68偈と同じです。それを「修行者が、自分に必要な修行にはげみ、解脱して、ニルヴァーナ(涅槃)に達したときは、」と説明しました。

後半の「真理を観ずるかれにとって、一切の感受は消滅するであろう。」と書いてありますが、一切の感受が消滅しているから、真理が観えているということであります。

「一切の感受は消滅する」とは、感覚はあるが、快や不快を感じないということです。これにともなって、敵か味方か、善か不善かなどが問題にならないということです。また欲や怒りが現れなくなるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 68偈

68 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、かれは独りで魔女や悪鬼をも超えるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、次のように解釈します。

修行者が、自分に必要な修行にはげみ、解脱して、ニルヴァーナ(涅槃)に達したときは、その修行者は心の形態作用や名称作用を克服しているだろう。

私のイメージでは、魔女とは心の形態作用です。そして、悪鬼とは心の名称作用です。

ところで、昨日は豪雨は九州北部に拡大していると新聞報道がありますから、SRKWブッダや法風如来が気がかりですが、彼らは魔女や悪鬼をも超えておられますので、無事であることは間違いないことです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 66偈、67偈

66 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して敬礼せよ、___バラモンが火の祭りを恭しく尊ぶように。

67 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して仕えよ、___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人」とは、前回の64偈、65偈に記されていた「道理を識別している人」と同じ内容です。

今日は「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということを考えてみましょう。

これは、正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたい、というならば、「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということです。

本当に正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたいというならば、自然に「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということになるでしょう。

そのようにならないならば、無理にそうする必要はありません。

その前に、正しくさとった仏の説かれた理法とは、何のためにあるのか知っておく必要はあります。

それは、あなたの悩みや苦しみを取り除き、あなたを幸せにするためにあるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 64偈、65偈

64 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、敬礼せよ。___バラモンが火の祭りを尊ぶように。

65 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、仕えよ。___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「老人であろうと、若者であろうと」とは、誰でもということです。

「道理を識別している人」を「尊敬して、敬礼せよ。(尊敬して、仕えよ。)」とありますが、誰が「道理を識別している人」かどうか、ほとんどの人々がわかっていません。誰もが、自分の考えに近い人、自分に都合がよいことを言う人を、尊敬し、敬礼するのです。

「道理を識別している人」とはどんな人か知ることが必要です。その前に、道理とは何か?知る必要があります。

道理を知らないものが、「道理を識別している人」を探すのはむずかしいですが、道理を知らないと思われる人を知ることは比較的やさしいでしょう。

最近ユーチューブを見ていたら、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を聞きました。このような人は、道理を知らない人です。

「今だけ、金だけ、自分だけ」の人でない人でも、本当に道理を識別している人かどうかはわかりません。

しかし、道理を識別している人は、本当にやさしい人だとは言えます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 63偈

63 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍があり。(打たれて)怒る者に禍あり。

(ダンマパダ389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ389の解説を以前しました。それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200910/article_1.html

(以下引用)

バラモンを打たないように
バラモンは彼に怒りを現さないように
バラモンを打つ者は糞だ
彼に怒りを現す者はそれより糞だ

〇この詩の蛇足

釈尊の言われるバラモンは阿羅漢の可能性があります。阿羅漢は尊敬されるべき人であります。その人に暴力を振るったら、その人は幸福にはなれません。悟 ろうと修行しても悟ることは出来ません。ですから、バラモンには暴力を振るわないことです。今特に日本ではバラモンはいませんから、お坊さんと考えたらい いでしょう。お坊さんには暴力を振るわない方が安全です。もちろん、お坊さんに限らず、どんな人にも暴力を振るわない方が安全です。

 一方、暴力を振るわれたバラモンは、暴力を振るった人に怒りを持ってはいけません。バラモンはどんな時でもどんな人にも怒りを持ってはいけないのです。バラモンたる者は怒りを現してはバラモンではありません。

 「バラモンを打つ者は糞だ」の「糞だ」はパーリ語では「ディー」という言葉です。パーリ語辞書には「厭わしきかな。嫌らしい。」と出ていますが、以前ス マナサーラ長老に「この言葉は口にもだすのは嫌な言葉なのだ。」と聞いていました。釈尊の詩の中で「糞だ」などと言う言葉はどうかとは思いましたが、この 文脈ではこの言葉が一番相応しいと思い、あえてこう訳すことにしました。御批判も多々あるとは思いますが、一応そういうことで御了承お願いいたします。

 「彼に怒りを現す者はそれより糞だ」はバラモンは暴力を振るわれても怒りを現してはいけません。もし、暴力を振るった人に怒りを現したら、その人以上に糞だと言われるのです。
 なぜ、でしょうか?バラモンと一般人の関係は、大人と子供の関係なのです。大人が子供に暴力を振るわれたからと言って、子供と同じ立場で大人が子供にやり返せば、大人気ないということになります。ですから、バラモンたる者は打たれても怒ってはいけないのです。

 釈尊がバラモンに対して述べていることは、バラモンにだけに述べているわけではありません。私たちに述べられていると考えた方がよいのです。出家者や修行者や人格を向上させようと思っている人たちは、バラモンに学んで、打たれても怒らないように努力した方がいいのです。

〇坊さんを打たないように坊さんは打たれても怒らないように(389)

(以上引用)





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 61偈、62偈

61 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンとをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。
 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人のバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

カッコの中は訳者の注釈です。読みにくいので、注釈を除くと以下のようになります。

61 母と父とをほろぼし、国王と二人の博学なバラモンとをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 母と父とをほろぼし、二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。

この内容では意味が過激なので、母や父などは何かの象徴であることがわかります。その意味を知るためには注釈が必要です。

2010年6月5日、これらの偈によく似たダンマパダ294と295を解説しました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_5.html

(以下引用)

 「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。(自我と言ってもよいと思います。)
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきま す。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解してお きます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っている のか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生 きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生 まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いで す。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺 すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生 まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからで す。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以上引用)

なお、2010年6月5日のブロブ記事には、チューラパンタカさんのコメントがありました。
チューラパンタカさんは、最近コメントしてくださる自分さんに、私がつけた名前です。懐かしいですね。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 60偈

60 バラモンよ。流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。つくり出された諸の現象の消滅を知って、汝は、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者となるだろう。

(ダンマパダ383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ383について、以前解説を書いています。
https://76263383.at.webry.info/200909/article_25.html

その時は、解脱以前でしたから、次のように書いています。
「このバラモンの章は阿羅漢の境地が多く述べられます。この境地を体験してない私には荷が重いのですが、なるべくこのブログを読む方が、誤解をしないように注意して書くつもりでが、分かってない者が書いているという前提で特に、この章はお読み下さい」

その時の解説では、「流れを断て」を「因縁の流れを断ち切って」としてありましたが、「流れ」とは「愛執」を意味しているのです。以前の解釈をここで訂正します。

「勇敢であれ。」は「努力せよ。」というほどの意味です。

諸々の現象は作り出されたものでありますが、ニルヴァーナ(涅槃)は作り出されたものではないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 59偈

59 紐(ひも)と革帯と、悪い欲求と貪ぼりとを断ち切って、妄執を、根こそぎにえぐり出して、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は58偈を参考にすると「根こそぎにえぐり出して」の次に、「めざめた人(ブッダ)」が抜けているのかもしれません。

昨日は、過去のブログ記事により、パーリ文注釈に基づいて、紐を怒り、革紐を渇愛のたとえと解釈しましたが、今日は、「ように」を補って、「紐(ひも)と革帯と」を「紐(ひも)と革帯と」のように断ち切りがたいと解釈します。

「悪い欲求」とは、不必要な欲求です。

「貪ぼり」とは、際限なく欲しがることです。

「妄執」とは、盲目的は執著です。自分でも気づくことなく執著しているのです。これは潜在意識の働きによるものです。

潜在意識の働きを、意識的に根こそぎえぐり出すことはできません。ではどうするか?

これは一大事の因縁によって起こるのです。善知識(善友)と遭遇し、「法の句」を聞くことにより起こるのです。これが解脱(覚り)です。

一大事の因縁は、功徳を積むことでできます。ですから、功徳を積むことが修行です。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 58偈

58 紐(ひも)と革帯と、超越し難い個人の連続を断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を投げすてて、めざめた人(ブッダ)、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 

(ダンマパダ398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の58偈の注に「超越し難い個人の連続を断ち切り」の「連続」について次の記述があります。
(以下引用)
連続___saṃtāna. パーリ文『ダンマパダ』にはsaṃdāna (綱)とあるが、東部インド語の d 音は、サンスクリットに直すと t 音であると解して、サンスクリットに直す人が saṃtāna とした。だからこの詩では「紐」や「革帯」とはつながらぬ変な文章となっているのである。
(以上引用)

このような注がありますから、「超越し難い個人の連続を断ち切り」は「超越し難い個人の綱を断ち切り」と読んでおきましょう。

それにしても、紐(ひも)や革帯や連続(綱)や門をとざす閂は何を意味しているのでしょうか?

ダンマパダ398に関する私のブログ記事を参考にします。
https://76263383.at.webry.info/200812/article_6.html

(以下引用)
紐(怒り)と革紐(渇愛)と
綱(六十二邪見)を手綱(煩悩)と共に切断し
門の鍵(無明)を開け、悟った人
彼を私はバラモンと呼ぶ

○この詩から学ぶこと

 この詩が出来た因縁物語は次の通りです。二人の男が自分の牛の優劣を競うために、それぞれの頭の牛に重い荷車を引かせました。しかし、どちらの荷車も少しも動かず、荷車をつないでいる革紐が切れてしまいました。この様子を見ていた比丘たちは釈尊に報告しました。釈尊は革紐でも簡単に切れるが、怒りという紐や渇愛という革紐、六十二邪見という綱、煩悩という手綱はなかなか切れない。これらを切断して、無明という門の鍵を開け、四聖諦という真理を悟るように説法されたとのことです。

 上の詩のカッコ内はパーリ文注解によるものです。六十二邪見とは、長部経典第一「梵網経」に解説されています。釈尊の時代の「我」と「世界」に関する六十二の哲学的見解であります。これらは現代にも通じる人間が考えられるすべての見解を網羅されています。

 その邪見の概要の項目数だけを示します。
 過去に関する十八の邪見
1.常住論(四種)、2.部分的常住論(四種)、3.有限無限論(四種)、4.詭弁論(四種)、5.無因生起論(二種)
 未来に関する四十四の邪見
1.有想論(十六種)、2.無想論(八種)、3.非有想非無想論(八種)、4.断滅論(七種)、5.現世涅槃論(五種)
 以上六十二の邪見は、すべてが囚われた見解であることが上記のお経で指摘されています。

 今回の詩でもバラモンは、怒りと欲などの煩悩という私たちを拘束している紐、綱を断ち切るように述べられています。一人の人間が六十二の邪見を持っているわけではないのですが、いろいろな人間がいますから、いろいろな見解を持っています。それらを整理すると、六十二の邪見になったということです、自分が持っている見解がどの邪見にあてはまるかわかれば、すぐこの邪見を克服できるでしょう。そして無明という鍵を開けて、智慧の扉を開けるように教えています。

 無明とは真理が分かってないということです。より具体的に言えば、四聖諦が理解できないことです。あるいは、諸行無常、一切皆苦、諸法無我が理解できないということです。逆に言えばこれら一つだけでも悟れば、無明ではないということです。これらの一つだけでも悟って、無明の鍵を開き、バラモンのような人間でありたいものです。

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 57偈

57 形が無く、堅牢でなく、見ることができない心をつねに制御して、はっきり知って、つねに念(おも)いをこめて歩み、束縛の絆を滅したブッダたち、___かれらは世間においてバラモンなのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

心について、この偈と同様の表現がされているダンマパダの偈を引用します。
(以下引用)

35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36 心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。

37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。

(以上引用)

このような心を、おさめ、守り、制止した人は、真のバラモンです。