ひとりじゃない

今日は、偶然見つけた(実は偶然ではないのですが)動画を紹介します。

それは「大観衆!駅のど真ん中でいきなり歌ったらとんでもない奇跡が起きた…【路上ライブ】」です。
https://www.youtube.com/watch?v=vxgj-eRtilw

この動画は「根のシンchannel」というもので、根のシンというシンガソングライターの動画です。

この人については何にも知らなかったのですが、共感するものがありました。

この動画に、最後に根のシンさんの次のようなメッセージがありました。

「そこには何もなかったでも全てがあった」・・・これは無一物中無尽蔵ということですね。

「僕には何にもできないと塞ぎ込んでいた」

「そんな僕も沢山の人達との出逢いで人生が変わった」

「応援してくれるみんなのおかげで前向きになれた」

「だから此処で終わっていいわけがない」

「どんな結果が出たとしても」

「きっとこの情熱は消える事はない」

これもいいですね。

他にもいろいろな動画がありました。

探して、見てみて下さい。悪くありませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=tJ_A0uPTk3E


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その6)

第二節 他支縁起の考察
 
原始仏教経典における縁起説は、十二支縁起とともに三支・四支ないし九支・十支等の他の縁起支も数多く説かれ、その成立について様々に論議されています。
成立の順序について、十二支縁起の成立は縁起説の中では最も新しいと見られていますが、その一番大きな理由は簡単な三支・四支・五支などの縁起説が、十二支縁起説よりも以前に成立していたと見られているからです。
 
この説について和辻哲郎(わつじてつろう・日本の哲学者)氏は、「縁起説が簡単なものよりより複雑なものへと発展したと認めるならば、一切の困難は消失する。」と述べておられます。
 
また、「その原典に説かれる実体は、まことに雑然として、秩序も統一もない」ことを考えると、縁起説では「縁起」ということが重要視されたのであり、その縁起説が十二支から成立しているか、あるいは十支、あるいは九支などから成立しているなど、「支」の数についてはあまり問題にしなかったのではないか?と推測されます。
 
十二支縁起と、他支縁起の最も相違するのは、人間存在の根源を数段掘り下げて思索した点にあります。たとえば、十支縁起と十二支縁起を比較すると、行・無明が加えられているが、行とは前述したように「業」とおなじ意味を持ち、身・口・意の行い、及びその行いの結果もたらす潜在的能力を指し、「無明」は我々の存在の根底にある根本的な無知を指します。
 
しかし、無明にまで苦の生起の原因が到達しない他支縁起については、「愛」(あい)が重要な意味を持っています。愛とは、前述したように渇愛(かつあい)のことであり、原始仏教では苦しみの生起の原因は、妄執(渇愛)、すなわち喉が渇いているときには水が欲しくて仕方がないような、いかんともし難い衝動的な欲望であり、これが我々の存在の根本にあると考えたのです。
 
この愛(渇愛)が、苦の成立に起因するという考えは、「苦の成立とは何を意味する。すなわち渇愛ゆえ、更にこころよい性質をあらしめ、貪り執着し、喜びから離れることができない。」(『仏説転法輪経』)という経典の記述と、前述した四種の真理(四聖諦)の集諦説(苦の原因は、渇愛であるという真理)とが一致することでも理解出来ます。
 
また、他支縁起を説く経典では、苦の成立に起因する愛を「時にしたがって水をいっぱい注ぎ、冷暖を調節するという因と縁とを育てた樹木が、しかる後に大きく太いものになる。」と樹木に譬え、あるいは「常住なるものを思い、常住であると思い、安らかにして穏やかであると思い、我がものという観念を思い、作られたものと見る。この形ある世界において渇愛は増大する。」(『雑阿含経』巻第十二(二八三))と、存在に対する誤った見解が人間の意識の深層に潜み「激しく求める」という衝動的な欲望を増大増長せしめ、それが人間苦を生み出す根本原因であると説くのです。
 
また同時に、経典は愛がどの様にして滅せられるかも説くのです。
「多聞の聖弟子は、色の集、色の滅、色の味、色の患、色の離において實の如く知る。實の如く知り己らば、彼れ色において愛楽せず(渇愛を楽しみとしない)、讃歎せず(ほめたたえない)、染著せず(執着して止まらない)、留住せざるなり(留まって住むことがない)。愛楽せず留住せざるが故に、色の愛則ち滅す。」(『雑阿含経』巻第二(五三))と。
 
このように、愛(渇愛)もまた因と縁とによって形成され、それに伴い執着という精神作用が増長し、大きく膨らんでいくものであるが、智慧によって人間の存在を如実に観て欲望(愛)を離れるならば、それは「滅することが可能なものである」と教えるのです。
 
しかしここで、修行の実践と到達する境涯に関し、大きな疑問が生じます。
前述したように、他支縁起説における苦の生起とは愛(渇愛)に起因し、「愛が滅せられれば死後に生まれ変わることがない」と説かれるが、十二縁起説に於いても同じように、「かの無明をとこしえに滅し、死後に生まれ変わることなし。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))と説かれていることです。



腸といろいろな臓器の関係

先日6月24日に、腸内フローラ(腸内細菌叢)について書きました。
https://76263383.at.webry.info/202106/article_24.html

その記事に少し補足します。

腸内細菌は「善玉菌」と「悪玉菌」と「日和見菌」と分類されます。

「善玉菌」は、食品中の糖分を分解して乳酸やアルコールなどを作る(発酵させる)細菌です。

「悪玉菌」は、たんぱく質やアミノ酸を分解して硫化水素やアンモニアなどを作る(腐敗させる)細菌です。

「日和見菌」は、腸内では一番数が多いのですが、「善玉菌」と「悪玉菌」の勢力の大きい方の影響をうけて作用する細菌です。

この記事では、腸内フローラが人間の精神に与えるという結論を急ぎすぎましたが、腸は体の多くの臓器と複雑なコミュニケーションをとり、連携をとっているということも興味ある事実です。

以下、腸といろいろな臓器の関係を、「新しい腸の教科書」から引用します。

胆嚢:腸内に食べ物が送られると、胃酸を中和したり、消化を助けたりする胆汁を分泌。悪玉菌が増えると、胆汁は有害な二次胆汁酸に変化する。

膵臓:腸内に食べ物が送られると、栄養素を分解する消化酵素を含んだ膵液を分泌する。

腎臓:血液中の老廃物を尿として排泄し、体液のバランスなどを調整する。腎臓を保護する腸内細菌が存在し、環境が悪くなると腎臓低下や病気を招く。

副腎:ストレス反応を緩和するホルモン「コルチゾール」を分泌する。腸内で炎症などが起こると大量に分泌されるが、副腎の機能低下を招いて慢性疲労の原因になる。

肝臓:胆汁をつくり、小腸で吸収された栄養素を一時的に貯蔵する。腸内で悪玉菌が増えると、毒素を取り込んでがんなどの病気の原因になる。

脾臓:体内の免疫システムを管理する。腸管の免疫システムからも間接的に影響を受けている。

胃:食物を粥状に溶かし、小腸に送る。腸のぜん動運動のスイッチをコントロールする。

心臓:自律神経によって心拍数や血流がコンロトールされている。交感神経や副交感神経のはたらきで腸内血流も変化する。腸内細菌のバランスにも影響を受ける。

肺:呼吸によって自律神経に影響が出る。深い呼吸による横隔膜が腸のぜん動運動をサポートしている。

脳:脳腸相関のネットワークにより、お互いの情報を交換し合い、脳腸の状態がそれぞれに影響しあっている。



おはようございます。

今日の東京はかなりの雨です。昨日も午前中も雨で、近所の運動公園でのラジオ体操はできませんでしたが、今日もできそうもありません。

もっとも、このような日にはテレビ体操を見ながら、妻と一緒に行うのです。

今日も室内での体操になりそうです。

さて、この世の中には、覚り(ブッダ=仏)を目指して修行をしようと思う人は多くありません。

仏教は、覚り(ブッダ=仏)への道を教えるものですので、それを望んでいない人に教えることはできません。

しかし、悩み苦しんでいる人はたくさんいます。

それらの人々にどうするか?

それは、私の課題です。

当面は、縁を待って、やさしく見守るとということになるのですが。

石法如来の特別寄稿: (十二支)縁起の考察(その5)

6 触(しょく)-触とは、六触身(眼触身・耳触身・鼻触身・舌触身・身触身・意触身)を言い、愚癡にして無聞の凡夫は、この六つの接触の入るところに触れることにより苦楽受を知り、種々の原因を生起すると説きます。
 
7 受(じゅ)-受には、快適の対象(楽)を感受、苦痛の感覚(苦)を感受、苦でも楽でもない(不苦不楽)感受の三受があり、それぞれの接触を縁として受が生じ、あるいは滅し、無常であって因縁に従って生じ、あるいは滅び、腐って壊れる法でもある。
 
8 愛(あい)-愛もまた三種ある。欲愛(渇愛・愛欲・欲望に向かう妄執)、有愛(生存に対する妄執)、無有愛(生存の絶無となることに対する妄執)の三つです。
愛は一般に「渇愛」(かつあい)とも訳され、渇(かっ)している者が水を求めるような激しい欲求を意味する。
 
9 取(しゅ)-取は四取(ししゅ)あり。欲取(よくしゅ・欲望に執着し、欲求して止まないこころのはたらき)、見取(けんしゅ・哲学的見解に執着し、欲求して止まないこころのはたらき)、戒禁取(かいきんしゅ・戒めや誓いに執着し、欲求して止まないこころの働き)、我語取(がごしゅ・我ありと論ずることに執着し、欲求して止まない心のはたらき)の四つです。
 
10 有(う)-有は存在を意味し、三種の迷えるものの存在の世界(三有・生きものの生存状態)をいう。
欲有(よくう・欲にとらわれた生存)、色有(しきう・すぐれた物質のある境地における生存)、無色有(むしきう・物質のない境地における生存)の三つです。
 
11 生(しょう・せい)-生とは衆生の生存をいい、過去に和合し出生することで、五蘊を得、類を得、場を得、生命を得ることです。
                                                                              
12 老死(ろうし)-老死とは、人間の種々の苦を代表させたものが老死です。
老とは、「髪は白く禿げ、皮が弛み機根が熟し、背は屈めて身体を支えるのに弱く、頭は垂れひっこみ呻く・・・」状態をいい、死とは「かの生存するもの、かの種性、滅して他の場所に移り、身体壊れ寿命尽き、怒りを離れ命を滅し、五蘊を捨てる時に至る。」(『雑阿含経』巻第十二(二九八))状態を言います。
 
以上で、十二項目にわたる各支の考察を終えますが、十二の縁起支は一体何を語っているのでしょうか。古来からの伝統説では、縁起説には大別して四種の見方があるとしています。しかし、この問題に対し簡潔に答えることは容易なことではありません。
 
釈尊は、今まさに苦の生存の中にある衆生というものに焦点をあてられ、「この縁、苦のあつまり、流転しきわめることなし。われ、いつ世のあつまりをさとり、生老死を滅することができるのか。」と思惟された訳ですから、この十二支縁起の系列とは結局、人間存在における「苦の生起と滅尽の連鎖」にかかわる分析法であると表現出来ます。



 
たとえば阿含経典には、「純大苦聚集」(じゅんだいくじゅしゅう)という言葉が頻繁に使われますが、聚(じゅ)とは集まりであり蘊(うん)の定義を持つから、人間の存在を「五蘊」と表現する思惟方法と同じであり、それは法説における五蘊・六入の分析法と異なりません。
それはまた、十二の縁起支を経典では「無明行識名色六入処触受愛取有生老死」と、一まとめで表現されていることでも知れています。
 
ただ、五蘊・六入の分析法と相違するのは、人間の存在というものをどのような角度から分析するか、という視点の相違だけです。
 
何より、この十二の縁起支が一つの集まり(蘊)として、時間・空間を越えて人間の生存を規定しているが故に、仏道修行の実践により「無明あるいは愛(渇愛)の滅が、生老死の滅を可能にする」と考えることが出来るのです。

やっぱり賢明な人はワクチン打たない

今日は、「植草一秀の『知られざる真実』」とういブロクの記事を引用させて頂きました。
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-0d397c.html

(以下引用)
やっぱり賢明な人はワクチン打たない

菅内閣がワクチンキャンペーンに懸命。
コロナ騒動の最大目的はワクチン販促にあると見られる。
日本のコロナ被害状況を踏まえると、現在のワクチン騒動は異常。
日本のこれまでの累計コロナ陽性者数は79.6万人。
全人口否比0.6%。
全人口の99.4%はコロナに感染していない。
コロナ死累計は14669人。
コロナ死の確率は0.012%。
インフルエンザを直接の原因とする死亡ならびにインフルエンザによる基礎疾患悪化による死亡の数は毎年約1万人と厚労省は発表している。
上記のコロナ死にもコロナを直接の原因とする死亡と基礎疾患悪化による死亡が含まれている。
新型コロナの死者数と通常のインフルエンザの死者数に大きな差は存在しない。
新型コロナは通常のインフルエンザ並みの感染症であると言える。
この状況に対して、政府が国費を投入して全員にワクチン接種する理由は見当たらない。
国民の大半がワクチン接種を受けて集団免疫を獲得するとの考え方があるが、ワクチンによる免疫能力付与の期間が長くはないこと、ウイルス有効性を下げる変異株が出現することを踏まえると、ワクチン接種による集団免疫獲得は実現しない可能性が高い。
それにもかかわらず、ヒステリックなワクチン販促活動が展開されている。

そもそも、今回のコロナ騒動の最大の目的がワクチン販促にあると考えられる。
注目されるのは、ワクチンメーカーの経営最高責任者(CEO)が株価急騰局面で保有株式を大量に売り抜けていること。
ワクチンの重要性、有用性がますます高まるなら、慌てふためいて株式を売り抜ける必要がない。
メーカー経営者は
「一過性の濡れ手に粟ビジネス」
であることを認識しているのだろう。
ワクチンに関しては不正確な情報が多数流布されている。
ワクチン販促連盟は、世に出回る間違った情報だけをピックアップして「ワクチンデマ」を攻撃する宣伝活動にいそしむ。
世に出回る情報にウソが多い。
そのウソだけをピックアップして、ワクチンに疑問を投げかける情報全体を封殺しようとしている。
テレビ各局も政府のワクチン販促活動に全面協力している。
重要なことは多数の誤情報が氾濫するなかで、真実の重要情報を人々に伝えること。
ワクチンに警鐘を鳴らす情報のなかに無視するべきでない重要な指摘が含まれている。
真実とフェイクを丹念により分けて、真実の重要情報を広く周知させることが必要だ。

ワクチン販促に芸能会社が活用される。
芸能会社はテレビ番組に芸人を出演させて、政府の意向に沿うコメントを提示させる。
その芸能会社に血税が注がれる。
悪質な政官業の癒着である。
こうしたなかで新潟大学名誉教授の岡田正彦氏が冷静な視点から有用な情報を提供している。
しかし、googleで「岡田正彦」と検索しても岡田氏のサイトは表示されない。
「岡田正彦 新型コロナのエビデンス」
で検索すると岡田氏サイトにたどり着くことができる。
https://okada-masahiko.sakura.ne.jp/

このサイトではワクチン販促連盟がワクチン推進のために取り上げるフェイク情報も取り上げている。
正確な情報の提供に腐心していることが分かる。
サイトはQ&A方式で多くの疑問に答える。
テレビメディアはこうした有用情報を紹介するべきだ。
ワクチン絶対善VSワクチン警戒論絶対悪の構図で番組を編成している点がいびつ。
岡田氏は「なぜ医師はワクチンについて正しい知識を持てないのか?」の問いに答える。
医師と製薬業界との癒着の深刻さが指摘される。
私たちは新型コロナワクチンに対する正確な知識をもってワクチンに対応する必要がある。
(以上引用)


*法津如来のコメント

すでに石法如来が特別寄稿で何度か新型コロナワクチンの危険性について警告されていましたが、今回は植草一秀氏の記事はわかりやすいので引用させて頂きました。

「無意識がわかれば人生が変わる」

「無意識がわかれば人生が変わる」という本を読みました。

慶應義塾大学大学院教授前野隆司氏と合同会社CCC代表由佐美加子氏の共著でワニ・プラスから2020年6月に出版された本です。

この本の目次は次の通りです。

まえがき 心はどこに行くのか
第1章 メンタルモデルと無意識
第2章 無意識を支配する4通りのプログラム
第3章 分離から統合へ
第4章 無意識を整えるこれからの学び
終章  メンタルモデルは無意識を知り、生を取り戻す4つのレンズ
あとがき 進化のときが来た

この本の帯には次のようなことが書かれています。

「現実」は4つのメンタルモデルから作り出される
なぜ、こんなことが起こるんだろう・・・
生きている不安、恐怖、仕事や人間関係の悩み・葛藤を抱えるすべての人へ。
そんな「不本意が現実」を生じさせているのは、無意識のメカニズムです。

4つのメンタルモデルとは次の通りです。

1 価値なしモデル
  「やっぱり自分には価値がない」→ 他人軸で生きるため、自分がなくなる

2 愛なしモデル 
  「やっぱり自分は愛されない」→ 人に過剰に尽くして自分の真実をいきられない

3 ひとりぼっちモデル
  「しょせん自分はひとりぼっちだ」
   → 常に自分や人、世界を割り切って捉え、なくならない孤独を抱える

4 欠陥欠損モデル
  「やっぱり自分はダメだ」→ 人のなかで安心して自分でいられない。心の平安がない

さらに、この本は「人間は、小さいころに体験した『痛み』を避けるための信念を無自覚に持っている。その信念から、人生におけるすべての行動が自動的につくり出されている。しかし、その自覚はなく、自分が日々やっていることを「良いことだ」「意味のあることだ」と頭で正当化している。」と述べています。

この本の結論は、このような無意識のメカニズムを受容してすること、これが統合ということのようですが、それで人生は楽になり、幸せになるということです。

最後に、法津如来のコメントが必要でしょう。

あなたの無意識はこのモデルの通りではないでしょうが、あなたの無意識を発見する参考になります。

無意識は自覚できないので無意識なのですが、それを発見し、克服することが仏教でいう修行です。

また、このブログで何度も言及した「名称(ナーマ)と形態(ルーパ)」で言えば、名称(ナーマ)の克服ということになります。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その4)

このように縁起とは、前述したように苦の生起(順観)と滅尽(逆観)という表裏一体の二方向を包含する法そのものであり、それと理論としての一切法(五蘊・十二処・十八界)が密接に融合して、仏教の法体系を作り上げているといえます。
 
それはまた、原始仏教経典の中では究極の教えとされる四種の真理(四聖諦)にも対応しています。四聖諦とは、第一には「迷いの中にあっては全ては苦しみである。」という真理で、これを苦聖諦という。第二には、「その苦しみを集め起こすところの原因は無明(仏教真理の無自覚)と渇愛(かつあい・求めて飽くなき我執)とである。」という真理で、これを苦集聖諦という。
 
第三には、「その苦しみを滅した境地こそが覚りの世界である。」という真理で、これを苦滅聖諦という。第四には、「その覚りの世界に至るのには八つの聖道に従って正しい生活をしなくてはならない。」という真理で、これを苦滅道諦と言います。
 
このように、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」の法とは、「因あり縁ありて世間を集め、因あり縁ありて世間集まり、因あり縁ありて世間を滅し、因あり縁ありて世間滅す。」(『雑阿含経』巻第二(五三))とあるように、「世界のものはすべて相依相関の関係において成立している。」ということであり、「生起する法は、また滅の法である。」と言うことが出来るのです。
 
まさに縁起とは、「仏がこの世界に現れても、現れなくても、不変であり、不変に存続することわりでありさだめなるもの」であり、法住(ほうじゅう・法として存在し)・法空(ほうくう・実体はなく)・法如(ほうにょ・法そのものの姿であり)・法爾(ほうじ・法として定まっている)なる性質を有するもの、すなわち縁起とは縁によって生じた(縁生)法そのものと言えるのです。
 
第二章 十二支縁起の成立と意義
第一節 縁起支の考察
 
釈尊の説かれた十二支縁起の法は、智慧の象徴であり甚深にして理解が難しいです。それは、自分のこころを観るようなものです。それを、「縁によって起こるものに従う、縁によって生ずる法」(『雑阿含経』巻第十二(二九六))と名づけるのです。
本節では、順観の順序に従って十二にわたり縁起支の考察を試みてみます。
 
1 無明(むみみょう)-無明とは、癡(愚癡・無知・ものの道理がわからないこと)とも言われ、経典には様々なことに対する無知が説かれています。
すなわち、「過去のこと、未来世のこと、初めの端と終わりの端、内心、外、内外、行為、行為の結果、業の果報、仏、法、相、四諦・・・など、これらに対する無知を愚癡無明暗黒の無明と言う。」(『縁起経』第巻一)のです。
 
2 行(ぎょう)-行には三種ある。すなわち自分自身(身)による、言葉(語・口)による、こころ(意)による人間のなす行為をいい、縁起説における行は業と同じ意味内容のものと言えます。
 
3 識(しき)-識とは、身体における六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意)の認識作用を言い、経典では「もし眼なし色なし眼識(以下、耳聱耳識・鼻香鼻識・舌味舌識・身触身識・意法意識)なくば、触あらず無なり。」(『長阿含経』巻第十(十三))と、その認識作用の成立を教えています。
 
4 名色(みょうしき)-名色は、名と色の二種に区分される。名とは、四つの物質を超えた受・想・行・識という集まり(蘊・うん)であり、色とは、複数の物質をもち一切を構成する四大元素(地・水・火・風)をいう。この二種を要略して名色となすが、この五つの集まりは、我々の存在を含めて、あらゆる存在を五つの集まり(五蘊)の関係において捉える見方でもある。
 
5 六入処(ろくにゅうしょ)-六内入処とも言い、眼入処・耳入処・鼻入処・舌入処・身入処・意入処をさす。それは、精神活動がそれを通じて起こる六つの領域であって、苦の生起の原因ともなるのです。この六つの識・触・受・想・思身という存在ゆえに、未来世に生老病死という苦しみが生ずるのです。(『雑阿含経』巻第十二(二九五))
 


認識の四段階

昨日、書いた「負けるが勝ち」について、少し整理すると次のようになるでしょう。

第一段階、勝ちと負けが別々のものと認識している。勝ちは嬉しい。負けは悲しい。

第二段階、勝ちと負けが別々のものではないと認識する。勝ちは負けがあるからある。負けがなければ勝ちはない。勝ちは負けによって成り立っている。勝ちは負けのおかげである。

第三段階、そもそも勝ちとは何か? 負けとは何か? 勝ちに不変の何かがあるのか? 負けに不変の何かがあるのか? そんなものは何もない。

このままであると、ニヒリズム(虚無主義)になりますが、第四段階があるのです。

第四段階、第三段階が何ものにも価値をおかずに認識できると、無一物中無尽蔵ということが実感できるのです。すべてのものがありがたく、感謝です。

このことは人間関係にも言えることです。

職場に嫌な上司がいます。私は彼を嫌いです。これは第一段階です。

自分が何者かわからないことに悩んでいたが、私は彼のような人が嫌いなのだとわかる。彼の何が嫌いなのか? 彼は細かずぎて、うるさいのです。私は自分の細かずぎる性質が嫌と思っている。彼は自分と同じ性質を持っていたのでした。

実際にはこれほど単純ではないでしょうが、彼のおかげで自分のことがわかってきたのです。

上司と自分の関係について、いろいろ考察していると、彼にも良いところあるのでした。彼が細かく、うるさいのは、自分のために心配していたからだとわかります。これは、第二段階です。

少し経過を端折りますが、上司には上司の生き方があり、自分には自分の生き方があることがわかります。それぞれ自由なのだということです。これが第三段階です。

第四段階は覚った人の人間関係ですが、これについては、いずれ話すことにします。



負けるが勝ち

先日、近所の図書館に行って書棚の本を見ていたら、

「『負けるが勝ち』の生き残り戦略 なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるのか」とう本が目に入りました。

この「負けるが勝ち」を見て、四十数年前のことを思い出しました。

子供達が喧嘩をしているときに、「負けるが勝ち」だからと言って、年上の子供に喧嘩をやめさせるために、

「負けてやりなさい」と言ったのでした。

兄の方は「どうして負けるが勝ちなのか?」と聞き返してきました。

その時、若い父である私は答えられなかったのです。

さて、今ならば、私は何と答えるでしょうか?

辞書的には、「一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらすということ。」などと書いてあります。

しかし、いろいろな解釈が可能です。

ですから、これが正解だとはいえません。

その解釈は、その人の認識の深さに関係しています。

つまり、その人の境地によるのです。あなたは、どのように解釈しますか? 

少し考えて下さい。

ヒントになる考え方を示しましょう。例えば、親と子供で将棋をするとしましょう。

親は子供に将棋を教えるのが目的です。親はわざと負けるのです。子は勝って喜びます。

子供はまた将棋をやろうといいます。この時、親は目的を達したので、勝ったのです。

しかし、親が真剣になって、子供に勝ったとします。子供は将棋はつまらなくなって、将棋をやめます。

この時、親は負けたのです。

また他の考え方は、勝負に勝った者は喜びますが、負けた者は悲しみます。

勝った者は、油断して、次は負けてしまうかもしれません。

負けた者は悔しいので、なぜ負けたのか考えて、次は強くなれます。

ですから、負けるが勝ちなのです。

さらに、次のような考え方もあります。

勝者は敗者によって成り立っていることを知ることです。

敗者がいなければ勝者はいないのです。

そもそも、勝者も敗者もいないのです。

ただ、勝者だとか、敗者だとかと思っているだけなのです。

勝者が幸せで、敗者が不幸だということもないのです。

いかがでしょうか?

あなたはどのように考えるのでしょうか?


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その3)

「法」(ダルマ)とは、「たもつもの」特に「人間の行為をたもつもの」を原意とするが、この現象の世界を「たもつもの」が、この因と縁ということになります。
 
しかし、この因は原因そのものであるから当然、人間の力ではどうすることもできないものです。ゆえに仏教では、この因を助成する事情や条件という間接的原因である縁を問題にするのです。
 
古来からある、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」という言葉は、如実にそのことを物語っています。
しかしこの法は、微妙にして見がたいものであり、成道後釈尊は「われが今、甚だ深いこの法を、はっきりとさとすのは難しい。全く難しい。覚りを知るところは難しく、思惟も可能にあらず。」(『増壱阿含経』巻第十(一))と、説法を躊躇されたとあります。
 
では、法(ダルマ)としての縁起とは一体どの様なものなのでしょうか。
経典には、縁起の相互依存関係性(相依性)を蘆束(あしたば)にたとえて説いています。
「たとえば三蘆の空地に立つには展傳(てんでん・順次に)して相依りて、竪立(じゅりつ・真っ直ぐ立つ)することを得るが如し。若し其(そ)の一を去るも、二も亦(ま)た立たず、若し二を去るも、一も亦た立たざるなり。展傳して相依りて、竪立することを得るなり。」(『雑阿含経』巻第十二(二八八))と。
 
また、「縁によってすでに生じた」ものを「縁巳生」(えんいしょう)と呼びますが、生じたものは「法」であり、「法」とは縁起したものをいう。すなわち、「存在」とはどんなものでも「法」と呼ばれるのではなく、因縁所生の存在だけが「法」と呼ばれるのです。
原始仏教経典における「法」説では、五蘊説と六入説とが最も重要であり、最も多く用いられます。
 
五蘊(ごうん)は、存在というものを「色受想行識」の五つの集まりを、六入(ろくにゅう)は精神活動がそれを通じて起こった六つの領域(眼耳鼻舌身意)を言います。
また、原始仏教の法を語る場合重要なのは、「法印」(ほういん・仏の教えのしるし)と言われる「無常・苦・無我(非我)」(三法印)の概念であり、原始仏教経典には頻繁に登場します。
 
そこにおいて、原始仏教の理論が実践と深く繋がっていることが知れます。そこで、前述した「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」とは具体的にどのようなことを言うのか、法印(三法印)説と縁起説とを対比させて考察してみましょう。
 
まず「無常」とは、「ありとあらゆるものが移り変わって、少しも止まらないこと。」であり、経典には「色は無常なり、若(にゃく・または)は因に若は縁によりて生ぜられる。」と、色もまた無常であり諸々の因縁によって形成された諸要素の集合体に他ならないことが説かれています。
 
また「苦」とは、単なる肉体的もしくは生理的な苦痛ではなく、日常的な不安または苦悩でもない。それは阿含経に説かれるものを換言して現代語に置き換えるならば、「自己の欲するままにならぬこと。」、「思いどおりにならぬこと。」と解釈され、経典には五蘊における苦の集積は、縁起に基づいて起こることが説かれています。
 
そして「無我」とは、我の否定であり、ときには「非我」(ひが)と訳される。縁起によって成立する世界には、固定的な自我というものは存在しない。自我はそのような性質としての存在ではないために、絶えず変化する世界においては、真実の存在たりえないとされる。経典では、愚癡(ぐち)にして無聞の凡夫は「我」に対し、如何に間違った見解を抱いているかを教えています。
 
「愚癡無聞の凡夫は無明を以ての故に、色(肉体)は是れ我なり異我なり相在すと見、我は真実なりと言って、捨てず。捨てざるを以ての故に、諸々の根増長す。諸根長じ巳つて、諸々の觸を増す。六触入處に觸せらるるが故に、愚癡無聞の凡夫は苦楽の覺を起す。」(『雑阿含経』巻第二(四五))
 
現代語訳:「愚かにして仏の教えを聞かない凡夫は智慧がないから、肉体(色)はこれ我・我と異ならざる形であると見て、我の真実を言っても捨てることがない。捨てずに用いるが故に、諸々の機根(能)が増長し、諸々の機能ははなはだ長ける。諸々の接触は増加し、六つの接触により入るところの接触作用が起こる故に、愚癡無聞の凡夫は苦と楽という感受(感覚)を起こすのである。」
 
そして、正しい無我の認識こそ「無明の滅」に繋がる正しい智慧であると説くのです。
 


意外なところの、意外なものが人間の精神に大きな影響をあたる

意外なところの、意外なものが人間の精神に大きな影響をあたえています。

それは腸内に存在する細菌群なのです。

それらは腸内フローラ(腸内細菌叢)と呼ばれて、総数100兆個、約1.5Kgあると言われています。

それらは、その機能から大きく「善玉菌」「日和見菌」「悪玉菌」の3つに分類されています。

これらの理想的なバランスは善玉菌2割、悪玉菌1割、日和見菌7割です。

日和見菌は優勢な方に味方するので、善玉菌が多ければ腸内は健康な状態をたもちます。

逆に、悪玉菌が多ければ、腸内は不健康な状態になるのです。

腸内フローラが人間の精神に影響をおよぼす理由は、幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンの9割が腸管で作られるからなのです。

セロトニンは、興奮物質であるノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑え、目覚めをよくしたり、やる気を起こさせたり、幸福感を与えるホルモンなのです。このホルモンは腸内が健康な状態の時に作られるのです。

すなわち、腸内環境がよい(善玉菌が多い)ときは、精神が安定するのです。

ではどうすれば、腸内環境が良くなるのでしょうか?

これは、知識がなければできません。

無知であれば、腸内細菌をコントロールすべがないからです。

今では科学的な研究で、多くのことが明らかになっていますので、自分で調べれば腸内細菌をコントロールすることができます。

簡単に結論を言えば、食べるものをコントロールすることです。

これは、腸内細菌のエサをコントロールすることになるのです。

善玉菌の好きな食事を取れば善玉菌が増えて、悪玉菌が好きな食事をすれば悪玉菌が増えるというわけです。

つまり、食生活を整えることは、修行になるということです。

今回のこの文章は主に、医学博士 江田クリニック院長 日本消化学会専門医 江田証 著「あたらしい腸の教科書 健康なからだは、すべて腸から始まる」という本を参考にして書きました。

年配者には、順天堂大学教授 白澤卓二 著「脳の老化を止める ココナッツオイル健康法」という本も参考になります。


遺伝子の作用によって覚るのか?

ほとんどの生命は遺伝子の作用によって生きていますが、それについては自覚されません。

遺伝子の作用は無意識の世界での働きなのです。

しかし、持っている遺伝子の全ての機能が働いているわけではなく、遺伝子の一部の機能しかオンしてないと言われています。

多くの遺伝子の機能は眠っていて、例えば危機的な状況に遭遇するとき、眠っていた機能がオンするのだと言われています。

そのことを、人間が覚るということと結びつけて考えると、覚りに必要な遺伝子が目覚めるということになるのでしょう。

このことに関してはもう少し複雑で、通常の人間の遺伝子はなんとしてでも生きるために作用するのですが、覚るためには、誤解を恐れずに言えば、なんとしてでも生きるということを放棄するようなことをするのです。

これは、生きることへの執着を離れるということです。

しかしいずれにせよ、遺伝子の作用をオンにしたり、オフしたりすることは、無意識の世界のことでありますから、人間の恣意的な思いではできないのです。

ではどうしたらよいのでしょうか?

般若心経には、般若波羅蜜多、すなわち仏の智慧によって、覚ると述べられています。

これをSRKWブッダは、善知識(善友)の発する「法の句」を聞いて覚ると述べています。

般若波羅蜜多、仏の智慧、「法の句」などが、一大事の因縁により遺伝子に作用するのでしょう。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その2)

それは釈尊が、輪廻と業の思想の中で「生死は何に従い何を縁として有るや」という、人間苦の存在に対する大いなる疑問への解答であり、その原因と条件とを思惟した時、「智が生じ、眼が生じ、明が生じ、通が生じ、慧が生じ、證(あかり)が生じた。」(『長阿含経』巻第一(一))ものなのです。
 
すなわち、「所謂(いわゆる)、無明を縁じて行あり、行を縁じて識あり、(以下名色、六入處、觸、受、愛、取、有とつづく)、有を縁じて生あり、生を縁じて老死憂悲悩苦あり。」(『雑阿含経』巻第十二(二九三))と。
その苦悩の生起を辿り人間の存在とは、「純粋にして大いなる苦のあつまりの集積(純大苦聚集)」であることを知るのです。
 
このように、無明から老死に至るまで、苦の生起を辿ることを「順観」(じゅんかん)の縁起といいます。「此有故彼有。此起故彼起。(これが有るが故にかれ有り。これ起こるが故にかれ起こる。)」という、前段のフレーズは順観の縁起を指し、簡単な図式を以て表示するならば、「無知(無明)~執着~苦しみ」【順観】ということであり、これを論理的に分析すると、
 
(1)人間存在の根底には、無明(根本的な無知)が潜在する。
(2)それに基づいて、渇愛(かつあい・妄執)が起こる。
(3)渇愛という誤ったはげしい欲求により、取著(しゅじゃく)という実際行動が起こる。
(4)それ故に有(生存)が終息せず、生老病死の苦しみが生起する。
ということになります。
 
このように、人間苦の生起に対する大いなる疑問の解答を得た釈尊は、次に「何等無きが故に老死無く、何等滅す故老死滅す。」と、その思索を人間苦の滅尽に向けるのです。
 
そして、「生無きが故に老死無し、生滅するが故に老死滅す、有無きが故に生無し、有滅するが故に生滅す。(以下、取、愛、受、觸、六入、名色、識、行とつづく)、癡(ち・無明)無きが故に行無し、癡滅するが故に行滅す。」と、純粋にして大いなる苦の集まりは滅する(純大苦聚滅)性質のものであることを知るのです。それに基づき、「此無故彼無、此滅故彼滅。(これ無きが故にかれ無し。これ滅するが故にかれ滅す。)」(『長阿含経』巻第一(一))という後段のフレーズが生まれます。
 
このように、老死・生・有と逆に観を修することを「逆観」といいますが、これも簡単な図式を以てすれば、「無知なし(無明なし)~執着なし~苦しみなし」【逆観】ということになります。
釈尊は、この順逆の縁起の中に苦の成立と集と滅と滅道跡を見て、「我れ此の法に於いて、自ら知り自ら覚り、等正覚を成じた。」(『雑阿含経』巻第十二(三八七))と、自らの「さとり」の成就を声高らかに宣言されたのです。
                                     
特に、この逆観の縁起思想の中から、「無始の生死に於いて無明に覆われ愛結に繋せられ、長夜に輪廻して苦の本際を知らず。」と、無限に輪廻する存在である衆生が、現世における修行の実践において、「純大苦聚滅」(苦の滅尽、すなわち輪廻からの解脱)が可能であるということと、
 
釈尊が自ら解脱を成就し、「なすべきことをなし終え、再び後の生存を受けない。」(『雑阿含経』巻第十(二七二))という自覚を得たとする、仏教史上極めて重要な二つの論理的根拠を読み取ることができ、それらから輪廻と業の超越を目指す仏教の理論と実践は、全てこの「十二支縁起の覚りが出発点になっている。」と考える事が出来るのです。
 
 
第2節 十二支縁起と法(ダルマ)
 
前述したように、釈尊のさとりし縁起とは全ての存在は因と縁との結合によって成立していると考えることです。
因とは、「原因になっているもの。結果をつくるもの。もとになるもの。」であり、縁とは、「すべてのものに因果の法則が支配しているのであるが、その果を生ずる因を助成する事情、条件、すなわち間接的原因を縁という。」ことです。
 
この縁における因果とは、「原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが因果の理、あらゆるものは因果の法則によって生滅変化する。」ということであり、ここに仏教の説く「法」(ダルマ)の何たるかが理解されるのです。


*法津如来のコメント

今回のこのコメントは、石法如来の特別寄稿とは関係なにのですが、次のようなコメントを頂きましたのでここに、記載いたします。

「庵治歳
2021/06/21 21:49

ワンギーサ様、輪廻と細菌の関係について・・・たのしく読ませていただきました。 紫陽花の花の色づき始めたこのごろ、年のせいか徒然にほとけを想います。 仏陀の説かれた悟りとは、二度と母体に戻らないこと(輪廻しないこと) とお聞きした覚えがありますが もしも、もしもですよ 無菌室のようなところで余生を過ごすことができれば 二度と輪廻せずに済むのではありませんか? 形式ばった、カリキュラムじみた修行より 科学が効果があるということでしょうか。 残り少ない人生、寄り道なく悟れればこんな幸せはありません。 ほとけの腕の中で幼子のように眠れれれば 凡夫の私など百点満点ではないかとも思うのですが。」

以上です。
庵治歳様、コメントありがとうございます。


輪廻転生にウイルス関与の可能性はあるか?

昨日、「輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?」と書きましたが、どういうことかと疑問に思われている方も多いでしょうから、私なりの説明をしましょう。

ウイルスは簡単にいえば遺伝子(DNAまたはRNA)が膜で覆われているものです。

両親の遺伝子が生殖細胞によって、子供に伝播することは、輪廻とは言わず、単なる遺伝と言います。

そうではなくて、ある個人の情報が、その個人の肉体が死滅した後に、次の世代に伝播することができれば、それは輪廻転生したと言えるのではないでしょうか。

生前に、あるウイルスがある個人の遺伝情報を取り込み、それをコピーして、増殖して、他の生命に伝播したならば、それは輪廻転生と言えるのではないかということです。

輪廻が有るか無いかの検証のために、幼い子供の記憶のなかに、その子の生まれる前の出来事があったのならば、それを輪廻の証拠とする調査がいくつか発表されています。

そのような記憶をウイルスが伝播してる可能性があるのではないかということです。

これは、いわゆる魂が生まれ変わるのではないのですが、生前の個人の情報が、死後に他の生命に伝播することになるのではないでしょうか。

遺伝子情報の発現は、身体の中で行われている現象ですが、意識できないことで、無意識の働きなのです。

ただし、輪廻転生はいかなるものであろうとも、覚りに至る修行とは直接関係ありません。


輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?

コロナ禍の中で、ウイルスについて考えることが多くなりました。

ウイルスといえば、新型コロナウイルスやインフレエンザウイルスの他、麻疹のウイルス、帯状疱疹のウイルス、ノルウイルスなど病気を引き起こすウイルスを思いだします。

しかし、多くのウイルスは人間や動植物には無害で共存しているのです。

そうでなければ、他の動物や植物や細菌の細胞のなかで増殖するウイルスは、宿主が死んでしまうために、生存できなくなるからです。

実は、ウイルスは私たちのまわりにいっぱい存在していると言われています。空気中にも水中に浮遊しているし、人間の皮膚にも髪の毛にも付着しているし、体内に兆単位で存在していると言われています。

ウイルスより桁違いに大きい細菌ですら、アンナ・コリンは著書「あなたの体は9割が細菌」(河出書房新社)で、細菌の数の多さを述べていますが、ウイルスの数はそれ以上に多いのは当然でしょう。

それらのウイルスは、自分の子孫をつくる仕組みを持たないで、他の生物の機能を活用して、自分のコピーを増殖する遺伝子だけの存在なのです。

ただそれだけであるならば、そのような存在は、多くの寄生生物の存在が知られていますから、納得できますが、ウイルスにはそれ以上のことがあるのです。

2003年、十数年がかりの国際プロジェクトで、約30億という膨大な塩基対を読み取って、ヒトゲノム(ヒトのDNA塩基配列)が解読されました。

その結果、ヒトゲノム全体の半分以上がウイルスに由来するのではないかと考えられる塩基配列であることが判明されたということです。
(武村政春著「ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!」さくら舎、より)

さらに、その著者は次のように述べています。

「ヒトゲノムの半分以上がウイルス由来というならば、ヒトは『雑多なウイルスの遺伝子の寄せ集め』といえるわけですが。」

「通常、遺伝子は親から子へと同じ種のなかで伝わるものですが、まったく無関係の、他の生物種へ遺伝子へ遺伝子が移動する『水平移動(水平伝播)』という現象が知られています。これは生物進化の原動力のひとつであり、どうやらウイルスが関与しているようです。」

ここからは、私の憶測ですが、輪廻転生にはウイルスが関与しているのではないか?と思えるのです。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その1)

第一章 十二支縁起の「さとり」
第一節 苦の生起と滅尽
 
私は過去、佛教大学の卒業論文として『十二支縁起の考察』を書きました。今回は、その論文を読みやすく理解しやすいよう少しアレンジして書いてみたいと存じます。
ただ内容的には、原始仏教経典による仏教理論に基づく解説でありやや難解です。また、SRKWブッダの説く「覚りにいたる教え」とすべて同調するものではありません。
 
※以下本文
釈尊が活躍した、2500年前のインドでは初期のウパニシャッドにおいて、人間の死後の再生を問題にした「輪廻(りんね)」の思想が定着した時代であり、様々な説をのべる宗教的指導者(沙門・自由思想家)が数多く登場していました。
 
インド人はもともと宗教的な民族でありましたが、ガンジス河畔に定着して以後は、輪廻転生の信仰をいだき、人間を含む生類は永久に流転輪廻の生涯を繰り返すと考え、しかもその信仰を切実に身に感じていたのです。
 
このような考えを受け原始仏教においても、人間が生まれ老い死ぬこと、そしてこの過程を無限に繰り返すこと・・・それを「輪廻」(流転・生死)と呼んでいました。そして、この輪廻の姿を如実に知り、生死を超越した人こそブッダ(目覚めた人)であるとしたのです。
 
「あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼし尽くすに至った人、かれを〈目覚めた人〉(ブッダ)という。」(『スッタニパータ』五一七)
 
更に、この輪廻説が人々の間に浸透するにつれて、次の生存を規定する要因は何かが問われるのは必然の勢いでありました。
ある者はよい境遇に再生し、ある者は好ましくない境遇に再生するのはどのような要因が働くのか。この問いに対する答えとして、業(ごう・カルマ・行為)の思想が成熟したのです。
 
「世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし行ける者は業(行為)に束縛されている。・・・進みゆく車が轄(くさび)に結ばれているように。」(『スッタニパータ』)六五四)
 
このように、輪廻説・業説に基づく釈尊の全ての教説は、仏教の人生観上最も意義を帯びるもので、これを離れては人生の種々相を説明することも出来なければ、進んではその理想の帰結をも明らかに出来ぬほどの意味があると考えられたのです。
 
では、釈尊はブッダガヤ-の菩提樹の下で何を「覚った」のか。実に、この問題については諸説ありはっきりしません。
しかし経典に、「その時、菩薩逆順に十二因縁を観じ、如実に知り如実に見るのみ、すなわち座上において、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい(ほとけのさとり))を成ず。」(『長阿含経』巻第一(一))とあることから、「さとり」と「縁起」とは密接な関連があることは間違いありません。
 
縁起とは、「他との関係が縁となって生起すること。(Aに)縁って(Bが)起こること。よって生ずることの意で、すべての現象は無数の原因(因)や条件(縁)が相互に関係しあって成立しているものであり、独立自在のものではなく、諸条件や原因がなくなれば、結果もおのずとなくなるということ。」と表現出来ます。
 
では、菩提樹下で釈尊がさとった縁起とは一体どの様なものであったのでしょうか。
その問いに対する答えは、縁起を簡潔に表現するフレーズ「此有故彼有。此起故彼起。此無故彼無。此滅故彼滅。(これが有るが故にかれ有り。これ起こるが故にかれ起こる。これが無きが故にかれ無し。これ滅するが故にかれ滅す)」の中にあるのです。


*法津如来のコメント

今回の石法如来の特別投稿「(十二支)縁起の考察」は、13回に分けての連載になる予定です。

三日おきの投稿なる予定だそうです。

また、この連載をお楽しみください。



 

砂糖には麻薬なみの依存性あり

昨日、「特に甘いものの取りすぎは、いろいろ問題があります。」と書きましたが、その具体例として、

「砂糖は麻薬並みの依存性あり! ジュースの飲みすぎは危険!?」という記事を紹介します。
https://www.mrso.jp/colorda/medical/3115/

この記事は白澤卓二氏、アンチエイジング研究の第一人者で、順天堂大学院医学研究科で教鞭を取っている方です。

コーラなどの炭酸飲料やスポーツドリンクに含まれる砂糖や果糖などの糖質は肥満を引き起こし、歯を溶かすことはよく知られていること。

砂糖の多いソフトドリンクは、WHO(世界保健機関)/FAO(国連食糧農業機関)の2003年のレポートでも肥満と虫歯が増加すると指摘されている。しかも飲料水中の砂糖の濃度が一定濃度を超えると中毒症状を示し、麻薬並みの依存性が発生することが動物実験で示されたとしています。

さらに、砂糖中毒により、人間の行動や社会性が変容する可能性もある。実際、米国では炭酸飲料水の飲み過ぎで若者が「攻撃的」になっている可能性が指摘されているのだと述べています。

要略は以上ですが、砂糖などの糖質が人間の精神に与える影響を考察します。

脳が血糖値低下を感知すると、副腎、膵臓、下垂体、甲状腺に働きかけ、副腎はアドレナリンとコルチソールを、膵臓はグルカゴンを、下垂体は成長ホルモンを、甲状腺は甲状腺ホルモンを分泌して、すばやく血糖値を正常にもどします。

血糖値の低下は生命の危機なので、アドレナリンなどの五種類のホルモンが分泌されるのですが、これは精神の興奮状態を作るのです。これがいわゆるキレやすい人間をつくるのです。

血糖値が高くなるとインシュリンが分泌されますが、インシュリンの本来の目的は、血糖値を下げるというよりは、体に余分は糖質を脂肪に変えて蓄積するためのものです。(人類の長い歴史の中では、高血糖という状態はほとんどなかったのです。)

それでも血糖値が上昇すると、インシュリンが分泌されますので、血糖値が下がり、そうするとアドレナリンなどが分泌され、体と精神が興奮するのです。アドレナリンは怒りのホルモンというべきものなのです。

この異常な繰り返しは、インスリン抵抗性という現象をひきおこします。

すい臓からインスリンが血液中に分泌されていても肝臓、骨格筋、脂肪組織でのインスリンに対する反応が鈍くなっている(感受性低下)ために、インスリンの血糖を下げる働きが十分に発揮されない(インスリンの効きが悪い)状態のことです。

空腹時に甘いものを食べると、血糖値が急上昇し、インシュリンが過剰に分泌され、アドレナリンなどのホルモンが過剰に分泌され、精神の安定がそこなわれます。

血糖値の安定は精神の安定に繋がるのです。



食生活を改善すること

身体には自分の意思で動かせる部分と自分の意思では動かせない部分があります。

この自分の意思では動かせない部分でも、身体全体の調和を保つために機能しています。

例えば、身体にバイ菌やウイルスが入るとそれらの悪影響を排除するために、免疫作用が働いて、発熱したりたり、咳がでたり、吐いたり、下痢をすることがあります。

このような、身体にとって異常事態でなくても、身体の恒常性をたもつために、自分で意識しなくとも、無数と言ってもいいほどの機能が働いています。

それほど、難しいことを考えなくとも、いつでも呼吸して、いつでも心臓は動いています。

これらは、無意識が働いているのです。

無意識が心を支配していると書きましたが、心が無意識を支配することがあるのです。

例えば、心に怒りを持つと、呼吸が荒くなり、心拍数が上がり、消化器の機能は停止します。

逆に心が穏やかになり、呼吸落ち着き、心拍数も少なくなり、消化器は働き始めるのです。

これらのことは、いろいろなホルモンの作用と関連していることが明らかにされています。

無意識に直接作用して、無意識を変えることはできませんが、間接的に無意識を変えることはできそうです。

今私が考えていることは、食生活を改善することです。

暴飲暴食では、心の平静はたもてません。

もう一つ、特に甘いものの取りすぎは、いろいろ問題があります。

以前、「甘いもの(糖分)は毒だ」について書いた記憶があります。


過去は変えられる

「過去は変えられる」など、できないことだと思っているでしょう。

しかし、実はそうではないのです。

過去はどのように存在するのでしょうか?

記憶の中に存在するのです。

過去とは体験や経験の記憶だと言ってよいでしょう。

ですから、記憶が変われば、過去は変わるということです。

ここで、いくつか問題があるのです。

そもそも、記憶は変えられるでしょうか?

他人にいろいろ言われても、自分の体験や経験はそんなに簡単に変えられません。

体験や経験にはその時の体感や感情が結びついているからです。

また、多くの記憶は忘れるということがあります。
忘れてしまえば、過去はなくなるのでしょうか?

ここでは顕在意識という言葉を使いますが、顕在意識では忘れていても、潜在意識は忘れていないのです。

潜在意識の記憶は忘れずにその人を支配します。

これが昨日書いた、無意識が心を支配しているということです。

ただ、無意識の記憶は正しいのでしょうか?

上で、「体験や経験にはその時の体感や感情が結びついている」と書きましたが、その時の感情は事実の誤認や解釈の誤りからも起こるのです。

例えば、父親の怒られて、父親は自分を憎んでいるのだと思って心に傷をもった子供が、実は父親は自分を愛しているので怒ったのだと知ったとき、無意識の記憶も変わるのです。

これが過去が変わったということです。

人は、いろいろなこだわりを無意識に溜め込んで、自分や他人や世界を解釈しますから、多くの場合間違っているのです。そのことを知る必要があります。