なぜ、武道家は覚らなければ強くなれないと覚るのか?



昨日のブログ記事に、「強さを求める武道家も、結局、覚らなければ強くなれないと覚ります。」と書きました。

それはなぜでしょうか?

武道の修行者は、筋肉を鍛えることを始めます。

しかし、筋肉を鍛えても相手に勝てないことを知ります。

そこで技を学び始めます。

技は筋肉の強さとは異なる技術が必要になります。

指導者からは、力を抜けと言われます。

しかし、力は抜こうと思っても抜けないのです。

相手に腕を掴まれたら、緊張して力が抜けないのです。

生死をかけた勝負の場であれば、その緊張は極限に達するでしょう。

これは、単なる技術だけでなく、心を平静に保つ修行な必要になるのです。

そのために、達人と言われる人は、心の修行をしています。

また、本当に武道の技術を身につけるということは、すべての技術から離れ、すべてを無意識にゆだねることだと知るからです。


武道を志す人

昨日の「石法如来の特別寄稿:私が出会った偉人たち。」のはじめに、空手家の太山倍達(おおやまますたつ)氏のお話が出てまいりました。

なぜ武道家の話と思われた方もおられるでしょう。

実は、武道と覚りとは縁が深いのです。

武道を志す人の目標は「強くなりたい」というところにあります。

そして如何にしたら強くなるか常に考え、そのために必要な修行に励んでいます。

はじめは、力を強く、速く動けるような修行をします。

また、戦いにおいては相手がいることですので、常に相手に勝る修行をしなければいけません。

ここにおいていろいろな問題が生じます。

相手の動きを知ること、相手の動きを知るためには、相手の心を知らなければなりません。

当然、自分の動き方も知らなければなりません。

一番力の出る動き方、一番速く動け方などを研究しなければなりません。

その時の心の持ち方も重要です。

相手を恐れて弱腰では、力も出ませんし、身体がすくんでしまいます。

それらを自らすべて発見するのは難しいので、それらを教えてくれる達人を探したりします。

強さを求める武道家も、結局、覚らなければ強くなれないと覚ります。

ここで、二種類の武道家にわかれます。

最後まで、強さを求めるために覚りを求める武道家と強さを求めることを放棄する放棄する武道家です。

後者は真のやさしさを求めて解脱するでしょう。


石法如来の特別寄稿:私が出会った偉人たち。(その1)

今日は、私の人生の中で出会った偉人たちについて書いてみたいと存じます。私の人生の中では、3人の偉人と縁がありました。
まず最初は、空手家の太山倍達(おおやまますたつ)氏。次は、阿含宗管長の桐山靖雄(きりやませいゆう)氏。最後は、SRKW(白川)ブッダです。
 
まず最初、空手の大山倍達氏を知ったのは私が25歳頃で、当時私はライフル射撃の練習に一生懸命打ち込んでおりました。ただ、少年時代から射撃と空手をやってみたいという願望があり、精神力と集中力を強化するという理由をつけ、そちら(空手)の稽古も始めたという訳です。
 
大山氏は、直接打撃制の実戦空手・極真会館館長(のちに、総裁)であり、梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』の主人公として登場した人物です。
もともと、空手の一流派としての大山道場(のちの、極真会館)は日本では無名に近い存在でしたが、大山氏が米国FBIの格闘指導官を行っていたこと等から、アメリカで有名になり日本へ逆輸入されたという経緯があります。
 
当時、極真空手は世界的に普及し門弟数は(全世界)一千万人と言われ、とても大きな勢力を持ち日本国内において地方大会、全日本大会そして四年に一度世界大会を開催するほどの組織でした。
私が実際の大山氏を拝見したのは、北海道選手権に出場した際名誉大会委員長で祝辞を述べられた時です。
 
北海道支部長高木薫氏は、大山氏の孫弟子にあたり大山氏とは昵懇の関係で、毎年北海道選手権大会に招かれておりました。その力強い声と、他を圧倒する迫力は「空手界のカリスマ」として身近に感じたことは事実です。
 
私自身も、大山氏の著書を何冊も読み「強くなりたい」という思いから空手の世界に入り稽古に打ち込みましたが、「自分は強くなった」と実感出来るほどに上達したことは間違いありません。
最も、真の強さは肉体的・技術的な強さだけではなく、精神的な部分にこそあるのは当然です。
 
極真会館の組み手は、「相対したら、倒す気で行け」と教えられますが、私の場合それに徹することが出来ない(ある意味)甘さ・精神的弱さがあり、あと一歩黒帯に到達出来なかった原因・理由はそこにあったのだと今なら振り返ることができます。
 
自分自身、釧路の指導員として後輩と共に汗を流し、一緒に稽古に励むなか多くのことを学び勉強させて頂きました。何より、極真空手総帥大山倍達の下青春の一時期真剣に空手道に打ち込むことが出来たことはとても良い思い出です。
 
次、阿含宗の管長桐山靖雄氏を知ったのは、私が結婚する前後に偶然妻が持っていた桐山氏の著書『密教 超能力の秘密』・『密教 超能力のカリキュラム』の二冊に出会ったからです。
それまで、自分自身射撃や空手を通じて(自分なりに)人間の限界に挑戦していたのですが、その著書を読み進めると「自分自身の中に、人間を越える力がある」と書いており、桐山氏の説く能力開発に興味を持ち、当時発売されていた著書を全て購入読破しました。
 
今振り返れば、相当「眉唾」な話ばかりですが当時の私は桐山氏の教えに興味を持ち、氏の説く人間を越える技法なるものを修業してみたいと考え、すぐさま教団に入会しました。
年齢的には、私が28歳の時の話であり当時は観音慈恵会(かんのんじけいかい)という団体名で、年表では阿含宗に変わったことになっていますが、約一年から二年の時間をかけ阿含宗という教団に移行しましたから、私が入会したのは丁度教団の変革期であったのです。
 
教団が、阿含宗を名乗る頃から阿含経の講義が始まります。阿含経こそ、「釈尊直説の教えである」という論理は著書などに書かれており、私自身も阿含経に興味を持ち原始経典を学び始めます。
 
桐山氏は、決断力があり変わり身の早い人物で自分がこうと決めたらすぐ実行に移すタイプで、私が教団に入会したときには会員も相当数在籍しておりました。
おそらく当時でも会員数は(全国で)十万人以上在籍し、護摩法要「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)」でも一千万本超の護摩木を焚くほど教団には勢いがありました。


*法津如来のコメント

今回から「石法如来の特別寄稿:私が出会った偉人たち。」がはじまりますが、この内容は昨日ブログに書いた「阿羅漢になられるまでどんな努力をされたのでしょうか?」と質問された方にたいする別の回答のような気がします。

これも一つのシンクロニシティでしょう。

阿羅漢になられるまでどんな努力をされたのでしょうか?

一昨日、次のような質問をメールでいただきました。

「ブログでは解脱されたということですが阿羅漢まで悟られたのですか?」

そこで、次のようにお答えしました。

「心解脱および慧解脱をいたしました。

ですので、ブッダと同等の覚りに至ったということです。

テーラワーダ仏教ではゴータマ・ブッダ以外はブッダとは名乗りませんので、

ブッダの境地に至った者は阿羅漢ということになります。

その意味では、阿羅漢に覚ったということになります。

しかし、私はテーラワーダ仏教の枠外にあるものですので、法津如来と名乗っております。」

そうしましたら、昨日「阿羅漢になられるまでどんな努力をされたのでしょうか?」という質問のメールをいただきました。

それについては、次のように返事をいたしました。

「どんな努力」と問われますが、あまり努力をしたという意識はないのです。

覚るために必要と思われることを真剣に取り組んだという思いです。

それは私にとってはやりたいことでしたから、やりたいことをやったということです。

具体的には、SRKWブッダのホームページ(覚りの境地)を真剣に読み始めました。

http://srkw-buddha.main.jp

その中で書いてあることを実践しました。

その中に、SRKWブッダの「一円の公案」の記述がありましたので、それにも取り組みました。

これには2、3年の間、四十数回の回答を行いましたが、通過しませんでした。

通過しませんでしたが、法の句を善知識(善友)から聞き、その後、解脱知見を得ました。

また、ブログを書いていたことも修行(功徳)になっていたはと確信しています。


日本語手話と日本手話の違いがわかりますか?

昨日のシンクロニシティは、あの人はどうしているかなと考えていたらその人から電話がありました。

30分ほど話したのですが、楽しかったですよ。

こういうことはよくあります。

皆さんもきっとあるでしょう。

さて、先日お墓参りに行ったとき、車のラジオで日本手話の話を初めて聞きました。

日本語手話と日本手話とは違うのです。

日本語手話は、耳の聞こえる日本人が使う日本語の文法に従って手話に翻訳したものです。

日本手話は、日本語とは異なる文法構造をもつ独自の言語なのです。

この違いは重要なのです。

日本語が自然言語であるように、日本手話は自然言語なのです。

この違いを説明するのは難しいので、次のユーチューブを見てください。

「日本手話」で生き生き学ぶ特別支援学校
https://www.youtube.com/watch?v=FuHbYRsJhkY

ろう者は障害者ではなく、聾(ろう)は個性として捉えているのです。

彼らは、千人に一人くらいに生まれている神様から選らばれた子供として生き生き生きているのです。

私はこのことを初めて知って、さらに世界が広がりました。


誰もがブッダになれる

一昨日(9月23日)のブログで「思っていることは現実化する」という記事を書きました。

この記事の目的を誤解されては困るので、少し説明します。

この記事は世間でいう「引き寄せの法則」と似ています。

しかし、私の意図は願望実現に目的があるのではありません。

次のことを知ってもらいたいたかったのです。

(以下引用)

脳は「できる」と確信する(仮説を立てる)と、その「確信」の論理的な後ろ盾を与えるべく認知情報処理系がフル活動する。

そのために、「できる」と確信したことは必ずできるようになる。

逆に「できない」と確信してしまうと、脳は「できない」ことの論理的理由を明らかにするように働き、できる可能性をどんどん縮小する方向に働く。

また、確信するものが何もない場合には、脳は情報処理の向かうべき方向が与えられず混乱してしまう。

確信とは、脳の向かうべき方向の強固さの尺度であり、これなくして脳は十分に働くことができないのである。

(以上、松本元著「愛は脳を活性化する」86ページより引用)

というわけで、私の言いたいことの本当の目的は、

法華経が教えるように「誰もがブッダになれる」と確信を持って欲しいということです。

朝からシンクロニシティ

昨日は、朝からシンクロニシティが起きすぎて、少し興奮ぎみでした。

いつもは読み流す新聞に、読みたい記事や、新聞小説には私の言いたいことが書いてありました。

また妻が見ているが、私はあまりみないテレビ番組でも、興味の引くものをやっていたのでした。

さて、その新聞小説の題名は「かたばみ」ですが、作者は木内昇さん、昨日は25回目でした。

その内容を少し引用します。

(以下引用)

「この校庭のどこでもいいですから、皆さん好きな場所に寝っ転がって、よくよく空を見てください。そうして、空を見てください」

 雲間から太陽が少し覗(のぞ)いている。わたる風が頬や首筋を励ますようにさすっていく。生徒たちは、悌子の言葉に顔を見合わせている。

「さ、早く寝転んで。しばらく空を眺めたら、ご自身が、戦争が終わったあとにやりたいことを、大きな声で言ってみましょう。寝転んだままでいいですからね。」

 願いごとは、口に出すといいんだよ、と教えてくれたののは清一だった。小学生の頃、野球選手を目指すようになった彼は、高いところに登っては、「甲子園に行きたい」「六大学の野球部み入りたい」と、空に向かって叫んでいた。そしてその言葉通り、着実に夢を実現いったのだ。

(以下省略)

これを読んだだけではわかりませんが、悌子とは新米の先生です。

ついでに、清一とは悌子の近所に住んでいた憧れの先輩です。

悌子先生が生徒に言ったことは、最近の私が言いたいことだったのです。


石法如来の特別寄稿:インターネット時代の仏教

パーソナルコンピュータ(以下、「パソコン」と標記)とインターネットの普及とともに、情報伝達速度と拡散スピードが格段に速くなったことは否定出来ない事実です。
かく言う私も、現代科学の進歩の恩恵を受けている一人です。今から、20数年前ウインドウズ98のノートパソコンを購入し、モデムを装着しインターネットを始めたのが懐かしい思い出です。
 
もしも、その時分からパソコンを操作していなかったなら、私自身の仏教人生も変わったものになっていたであろうと振り返ります。・・・と言うのは、私の生まれた年代の人間というのは、パソコンなどの電子機器に関し「使える・使えない」がはっきりと別れる、ある意味「時代の分岐点」に真正面から衝突した世代と言えるからです。
 
最新の電子機器を簡単に使いこなせる人間から見たら、旧石器時代の遺物の如き私達世代ですが、それでも切磋琢磨?しながら時代に取り残されまいともがいているのです。
 
インターネットを使用すれば、大量かつ高速で情報が伝達出来るというのは何よりの恩恵です。最も、私の場合もう仕事をしている訳ではないので(スピードの)速さは問題にすることはないですが、それでも時間と空間を瞬時に越えるという利点は有り難いものです。
 
私の言う、時間と空間を越えるとは「調べようとすれば、過去・現在の情報を集められる」ということと、住んでいるお互いの場所(距離)に制約を受けないと言うことです。
調べものは、パソコンの操作により簡単に答えを見つけ出せますし、会話をしたければネット環境を利用して遠距離の相手とも状態を見ながら会話を行うことが出来ます。
 
私は、長らく独りの修業を続けて参りましたが、世の中にパソコン・インターネットが無かったなら、未だに独りで試行錯誤の修業を続けていたと思います。
SRKWブッダが成道して約20年(2001年12月19日成道)になりますが、私は10年前においてもその存在を全く知りませんでした。
 
ワンギーサ先生(法津如来)に、初めてメールを差し上げたのは2017年6月ですから、今からわずか四年ほど前の話です。
当時、法津如来は「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」というタイトルでブログを開設しておられました。
 
丁度、私は61歳で仕事を辞めた後、『ダンマパダ』と『スッタニパータ』を主に読んでおりましたから、そのブログに出逢うきっかけとしては最適だったと言えます。
ただ退職後5年間程、自分なりに瞑想行を真剣に行じておりましたから、世間の動きに目が届かなかったのも事実です。
 
丁度そのころ軽度の脳梗塞で入院することになり、長い時間身体を静止させる修業は自分の健康には良くないのでは?という疑問と、自分なりに到達した境地に関し明確な答えを与えてくれる存在を欲していたことも、今となればタイミングの良い時期でした。
 
その様な、心理状態の変化する時期にかつて数度ネット上で記事を読み、お気に入りにチェックしていたワンギーサ先生のブログ上に記載されていた住所にメールしようかな?と考えた訳です。
インターネット上といえど、過去に見たこともチェックしたことも無いものならば、記事を読むこともメールを出すことも無かったのです。
 
全ては、今この時代だから可能になったことばかりでした。メールのやり取りの中で、「すでに覚りを得た人間がいる」という情報を耳にし、当然それはにわかに信じがたい事実でしたが、九州の熊本の人間であると言うことで、身近な人間で無くてもその存在を知ることが出来るという事実を目の当たりにして、まさにパソコンは時間・空間も越えるものであると納得・理解したのです。
 
少なくても私の場合は、パソコンを全く操作せずインターネットを行っていなかったなら、相変わらず自分なりの狭い世界の中を彷徨って(暗中模索して)いたことでしょう。
振り返れば、「早くもなく遅くもなく丁度良い時期」に、全てのことがタイミング良く起こったということは、仏(ほとけ)の世界に流れる力(法力・ほうりき)そのものであったと痛感するのです。


*法津如来のコメント

今回も石法如来から寄稿して頂きました。

次は9月29日から題名「私が出会った偉人たち。」を3回、掲載させて頂く予定です。

よろしくお願いいたします。


思っていることは現実化する

「思っていることは現実化する」ということは本当です。

昨日、最近涼しくなったので、扇風機が少し邪魔になったのか、

妻が「扇風機を片付けようか。」言いました。

その時、まだ暑くなるかなとも思ったそうです。

私も、まだ暑くなるかなと思ったのですが、

「それでは片付ける」と言って、さっさと片付けたのです。

そうしたら、どうでしょう。

昨日の午後は、30度を超える暑さになりました。

私だけでなく、妻もまだ暑くなるかなと思ったのですから、暑くなるのです。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。

この言葉は、多くの人々が思っていることなので、このようになるのでしょう。

今日がお彼岸ですので、今日まで扇風機を仕舞うのは待つべきでした。

このようなことは、些細なことなのですが、

いろいろな事柄について、この法則が働いています。

なぜ、このようなことが起こるのか考えると、そのように思っていたからだとわかります。

しかし、「思っていることは現実化する」という考え方は、本当かなと思う方は多いでしょう。

そこで、本当かどうか自分で検証してみるとよいでしょう。

この検証は少し難しいところがあります。

「思っていることは現実化する」とは本当だろうと思っている人には、思っていることは現実化します。

そんなこと、ありえないと思っている人には、思っていることは現実化しません。

ここにも、「思っていることは現実化する」法則が働いているからです。

あえて、このようなことを書くかといえば、

思っていることは実現するので、何を思うかということは重要だからです。

清く、正しく、楽しいことを思った方がいいですよ。


シンクロニシティとは因縁のこと

シンクロニシティとは因縁のことです。

人生を幸せに導くシンクロニシティと書きました。

ということは、因縁に気づくと幸せになれるということです。

「袖振り合うも他生の縁」という言葉があります。

コトバンクには、

「道を歩いていて見知らぬ人とすれ違うのも、前世からの因縁による。

行きずりの人との出会いやことばを交わすことも単なる偶然ではなく、

縁があって起こるものである。」

と書いてありました。

このように考えると、些細な小さな出来事にも意味を考えるようになります。

そうすると、すべて他人ごとではなく、自分のことと考えることができるようになり、

すべて大切なことと思えるようになります。

そのように思えると幸せになるのです。

一昨日、halさんが

「つながり

と いうこと を

おもいます


すべて は

つながっている

と」

とコメントしてくれましたが、その通りですね。

ありがとうございます。

今日はどんなシンクロニシティがあるでしょうか?

今日一日も楽しくなりますね。


シンクロニシティを活用をする

私は、このブログに書くテーマはシンクロニシティを活用して決めています。

その例として、次の話で示します。

数日前に「小鳥の鳴き声は言語だった 文法まで突き止めた日本人研究者」という記事を読みました。また昨日はNHKBSプレミアムで「ワイルドライフ:鳥の言葉の研究最前線」という番組を見ました。

従来は動物の声は感情の表現程度にか考えられていませんでしたが、文法まであることを証明したことは画期的なことです。

昨日のテレビで、それ以上に私が感心したことは、カラ類(シジュウカラ、ゴジュウガラ、ヤマガラ、コガラ等)が他の種類の鳴き声を理解しているということです。つまり外国語を理解していることです。

カラ類は独自の自分の言葉を持っていますが、他のカラ類の言葉も理解しているのです。

例えば、シジュウカラはヘビなら「ジャージャー」、タカでは「ヒーヒー」と鳴きます。しかし、他のカラ類はこれとは異なる鳴き声です。しかし、他の鳥の鳴き声の意味を理解しているのです。

これはすごいことではありませんか。

日本人が日本語を話し、アメリカ人がその日本語を理解し英語をはなし、その英語を日本人が理解し、日本語を話すということです。

これは国際結婚をした子供たちが行っているという話を聞いたことがあります。

世界中の人々がこのようにできたらいいなと思っていました。

このような思いは昔からあって、高校時代にはエスペラント語(人工的な世界共通語の一つ)を勉強しました。

今では、AIを活用した翻訳機で、これができるようにはなっているようですが、機器を使わずにできるのが理想です。

あのテレビ番組では、シジュウカラの親が子供に言葉を教えているところがありましたが、その場所に他のカラ類の雛が集まって来ていました。そのようにして鳥は外国語を学習しているようです。

さて、さらに昨日はアマゾンから、小原嘉明著「本能__遺伝子に刻まれた驚異の知恵」(中央新書)という本が届きました。

その本には「外国語を話すホタル」の話がありました。

こうなったら、シンクロニシティについて書かずにはいられません。

シンクロニシティについて

気をつけて生活していると、偶然のように思えるような縁で、役に立つ情報が得られることがあります。これはシンクロニシティと言われています。

シンクロニシティについて、ウイキペディアに次のように書かれています。
(以下引用)
シンクロニシティとは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では主に「共時性」と訳され、他にも「同時性」もしくは「同時発生」と訳される場合もある。例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。
(以上引用)

一方、SRKWブッダのホームページの理法の欄では次のように述べられています。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou292.htm

(以下引用)
【偶然ではない】
この世には、何一つ偶然はない。人々(衆生)にとっても、修行者にとっても、覚者にとってもそうである。

そのときに誰かと出会ったのは、まさにそのときでなければならないからなのである。それを覚りの機縁とする人もあれば、それを無為にやり過ごしてしまう者もある。

気をつけている人が、その機縁を正しく機縁と為す。ことに臨んだそのときが、この世においていつでも生じ得るの理由は、気をつけている人があるからである。つまり、まるで偶然に見えて、実は偶然ではないのである。

こころある人は、それ以前のことも、それ以後のことも考えず、ただ目の前のことだけを考える。そこに偉大なる智慧が出現する。その刹那に、一切の心の動揺を静めて、定を為す人があるからである。
(以上引用)

昨日、ユーチューブでシンクロニシティに関する面白い動画を見つけたので、紹介します。

【水口清一#010】【シンクロニシティ①】シンクロニシティは誰にでも起きている! 人生を幸せに導くシンクロニシティを起こす方法 /水口清一
https://www.youtube.com/watch?v=y4N1axNeGPY

【水口清一#011】【シンクロニシティ②】シンクロニシティは誰にでも起きている! 人生を幸せに導くシンクロニシティを起こりやすくする方法 /水口清一
https://www.youtube.com/watch?v=G6SisHWrqd8

【水口清一#012】【シンクロニシティ③】シンクロニシティは誰にでも起きている! 人生を幸せに導くシンクロニシティを活用する方法 /水口清一
https://www.youtube.com/watch?v=vcHUu45B2SE


皆さんもシンクロニシティに気づいてください。人生が楽しくなりますよ。


石法如来の特別寄稿:古希を生きる・・・三つのおごり。(その3)

三つ目は、「生存のおごり」です。                                                         
「愚かな凡夫は、みずから死ぬものであるにもかかわらず、                                   
他人が死ぬのを見て、悩み恥じ嫌悪している。                                         
 
わたしもまた、死ぬものであるにもかかわらず、                                             
このことはわたしにふさわしくないと言って、他人の死ぬのを見て、                           
悩み恥じ嫌悪するであろう。わたしがこのように観察したとき、
生存時における生存の意気は全く消え失せてしまった。」(同経典から引用) 
 
たしかに経典にはこの様に説かれておりますが、現実問題他人の「死」に対しそんなに深刻に捉え・考える人間がいるでしょうか?
むしろ、自分以外の誰かが仮に亡くなったとしても、「自分は死なない」・「自分は大丈夫」というある意味根拠のない自信に基づき、その事を真剣に捉え考えること自体先ずありません。
 
逆に考えたら、「その様な不吉な?こと」を考えないから平気で生きていられるとも言えます。
今回の記事の表題を、「古希を生きる」としたのは「老・病・死」どれも人間にとって深刻な問題ですが、私自身七十歳の高齢者となり迫り来る「死」を想定して書いています。
 
面白い話を聞いたことがあります。知人の義理のお父さんの話です。「○○君(婿さんの名前)、人間というのは段々年を取るにしたがって死にたくなくなるもんだな・・・。」と。
前述したように、普通の人間は特段「死を想定して」生きてはいません。ある意味、日々生きる(生きている)ことが当然であるかのように自然体で生きています。
 
それが、それなりの年齢になり死も近づくに従って、「死に対する恐怖」あるいは「未知の世界に赴く不安」が噴出してきて、死を恐れるようになるとも考えられます。
若いときは勿論、壮年になっても高齢者と呼ばれる年齢になっても、老い・病は勿論のこと死ぬことなど考えている人間はまずいないでしょう。
 
何故かと申しますと、その様なこと(老病死)を考えたところで答えが出ない(答えを持っていない)からです。
答えも出ない(出せない)、余計なことを考えて精神的にまいってしまうより、「何も考えない」、「成り行きに任せる」という道を選ぶのは、ある意味当然で(衆生にすれば)「死は想定せざる出来事」と言うことになります。
 
病はともかく、老いも死も生きていれば100%間違いなくやって来ることなのに、考えない・想定しない・行き当たりばったりの人生では、あまりにも寂しい気がします。
 
なぜ、自分は古希を迎えるにあたって「三つのおごり」を思い出したのか?それは、過ぎ去った若き日のこころの追憶であったように振り返ります。
思えば、三十代の時に仏典を学び「こんなもんかな」と感じた過ぎ去りし日々。訳が分からない中で、学んだ仏教思想の数々。それは、「さとりとは何か」を求めた日々でもありました。
 
「三つのおごり」の教えは、元々「四門出遊」の話が出発点であると知りました。それは、何十年ぶりかに読んだ『仏教百話』(増谷文雄著・筑摩書房)の、第一話に「三つの驕逸(きょういつ)をいましめて-出家」に出ていたので気がついたのです。
 
過ぎ去りし学びの日々ですが、私の場合は原始仏典の「現実的な問題に対し」て、「法(ダルマ・理法)に基づくより現実的な解答」に出会わなかったら、仏教思想というものに飽きてしまっていたかも知れません。
現実的で、かつ哲学的なものを好むのは私自身の性分であり、その性分と原始仏教の教えが一致したのです。
 
今はもう、経典もあまり読まなくなりましたが、この世で面白いものに出会ったなという感慨を持ちます。原始仏典に説かれる釈尊の教え(言葉)に出会わなかったら、自分自身の人生はつまらなく単調なものになっていたことでしょう。


*法津如来のコメント

石法如来の特別寄稿の「古希を生きる・・・三つのおごり。」シリーズは今回でおわります。

石法如来、ありがとうございました。

「次は単発で「インターネット時代の仏教」を23日に投稿します。」とのことですので、このブログには24日に掲載いたします。お楽しみに。


「さびしい」という感情(続き)

昨日、また才木広之さんが次のような面白いコメントをしてくれました。

ありがとうございます。

「友達と一緒に食事に行くとします

友達はラーメンが食べたい

自分は蕎麦が食べたい

意見が異なりますが

別れて別々の店に行くのは御互いさびしい

から今回は例えば友達に合わす

次回は自分に合わせてもらう

交互に行う

さみしくないね。」

交互に行えば、お互いにさみしくないですね。

少しニューアンスは異なりますが、次のような動画がありました。

「驚くべき発達 カタカムナ時代の 物流技術」
https://www.youtube.com/watch?v=o4HVO64TjLk

この動画は、足りないものをお互いに交換し合う知恵の話しです。

さて、「さびしい」という感情は、何か足りないものがある感情ですね。

本当は足りないものが満たされればよいのですが、好き嫌いなどの感情は入り込みます。

好き嫌いがなければ、問題が起こりません。



「さびしい」という感情

意見の違いについて考えていると、今まで考え違いしていたことがわかってきます。

その一つが「さびしい」という感情です。

皆さんは「さびしい」についてどのように思っているでしょうか?

一般的には、「さびしい」のは嫌だとか、恥ずかしいことだと思っていませんか。

昨日は、一日中4歳の孫と二人で自宅ですごしたのですが、彼は一人になるのを非常に嫌がります。

一人で遊んでいても、そばに来て欲しいと注文します。

人は、人だけでなく全ての生命は一人では生きていけないので、一人を嫌い、「さびしい」のを嫌うのでしょう。

「さびしい」は生命が生きて生きていくために必要な本能的な感情です。

ですから、「さびしい」は必要な感情だと考えていいのです。

「さびしい」は嫌がることでもなく、恥ずかしがることでもないのです。

では、「さびしい」とはどういうことでしょうか。

(カタカムナが教える音の意味で考えるまでもなく)

差がないということです。

意見の違いがなければ、さびしいですね。面白くありません。楽しくありません。

意見の違いがあってよかったのです。

生命が友達を求め、配偶者を求め、子を求めるのは自然なことなのです。

しかし、注意すべきことがあります。

「さびしい」は自然な感情ですが、その際その感情に余計な思いや考えが加わって、人は悩むのです。

それは問題です。

そのことについて、また考えてみましょう。

最後にダンマパダの62偈を引用します。

「『わたしたちには子がある。わたしには財がある。』と思って愚かな者は悩む。

しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。

どうして財が自分のものであろうか。」(中村元訳)


石法如来の特別寄稿:古希を生きる・・・三つのおごり。(その2)

自分自身が、実際に古希を迎えるに当たり思い出したのは、若い頃原始仏典を読み学んだことのある「三つのおごり」の教えです。仏教を学ぶ上で、ある意味当然な教えですが当時はまだ若かったので今ほど切実さを感じなかったのは事実です。
 
それでは、経典を読んで中身を振り返ってみます。
一つ目は、「若さのおごり」というものです。
 
「愚かな凡夫は、自ら老いゆくものであるにもかかわらず、
他人が老衰したのを見て、悩み恥じ嫌悪している。
わたしもまた、老いゆくものであるにもかかわらず、
 
このことはわたしにふさわしくないと言って、他人の老衰したのを見て、
悩み恥じ嫌悪するであろう。わたしがこのように観察したとき、
青年時における意気は全く消え失せてしまった。(『マッジマ二カーヤ(増支部経典)』(三・三八柔軟)から引用)
 
人間、若いときは自分の若さに対して無自覚なところがあります。それは何故かと申しますと、それはある意味「当たり前」のことであり、その事に関して「それ以上の感情」の発露はあり得ないしその必要もないと考えてしまうからです。
 
そのくせ、高齢者を見たら「こうなりたくない」、「ああなりたくはない」、「随分と年寄りだな」などという感情だけは起こります。そこそこ経典を読み、「そのようなものかな」と考えた私でもそうなのですから、経典など学んだこともない普通の人間なら聞くまでも無いことでしょう。
 
若い人には、誰に言われなくても若さに対する「おごり」は無意識の中に存在しており、それが若者の特権と言えば特権です。そのように観察して「青年時の意気が消え失せる」より、余計なことを考えないで困難に立ち向かっていく方が若者らしくて好感が持てるのもまた事実なのです。
 
私が古希になり、三つのおごりの経典を思い出したのは事実であり、この教えが「どこに出ていたか?」と探すうち、釈尊の出家の経緯である「四門出遊」の物語に突き当たりました。
釈尊は、シャカ族の王子として大変恵まれた生活を送っていたようですが、その生活の中に止まることが出来なかったのは「老いと病と死」の問題を解決したいと思い立ったからと言われています。
 
二つ目は、「健康のおごり」です。
「愚かな凡夫は、みずから病むものであるにもかかわらず、
他人が病んでいるのを見て、悩み恥じ嫌悪している。
わたしもまた、病むものであるにもかかわらず、
 
このことはわたしにふさわしくないと言って、他人の病むのを見て、                       
悩み恥じ嫌悪するであろう。わたしがこのように観察したとき、
健康時における健康の意気は全く消え失せてしまった。」(同経典から引用)                    
 
記事(その1)で、自分自身変わることの無い(錯覚する)意識(気持ち)について書きましたが、健康なときには「この健康がずっと存続する」ような気持ちを抱きます。
 
私は、六十五歳の時に軽度の脳梗塞で入院しましたが、病気発症前まで「ずっとこの様な(身体状態)が続くのかな」と、もしそうであるならば何の心配も要らないなという気持ちが生じたことは事実です。
 
そう思ったのもつかの間、実際に病気になりまだ五体は満足に動きますが、以前のように本調子という訳には行きません。
特段それらを心配している訳ではありませんが、その人間の持つ因縁により病気は起こり得ますし、それで無くても年齢による身体機能の低下は間違いなく起こってきます。
 
若いときは、そのような(病気)ことを考える事もないし、考える必要すら無いでしょう。それは、幸せなことなのですが若いときは、それが「おごり」だなどと気が付きません。
気が付くような人は、釈尊のようにある意味偉い人です。私も、随分前から経典を読み「これらのこと」は知っていましたが、十分に分かっては(理解しては)いなかったのです。
 
実際に、自分がその様な病気になり、現実に自分自身の身体と対峙せねばいけない状態になったとき、痛切に「健康の有りがたさ」に思い至ります。・・・人間とは、その様な存在なのです。
 


意見の違いをいかに乗り越えるか?(続き)

昨日、「皆様も考えてください。」と書きましたら、

才木広之(如来)さんが、コメントしてくれました。ありがとうございます。

その要旨は次の通りです。

「世の中には意見の違いがあります。

必ず交互にしか起きません。

自然なことです。

自然なことに心を揺らす必要はない。

意見の違いに心を揺らすことはない。」

・・・・・

同じことになるかもしれませんが、私なりの表現をしてみましょう。

そもそも、「意見の違いをいかに乗り越えるか?」という問題の立て方が間違っていたのです。

意見の違いは乗り越えなくてもよいのです。

人は一人ひとり違うのですから、意見の違いがあるの当然なのです。

違いがあってもいいのです。

意見は違いがあるから、面白い。

意見は違いがあるから、進歩があるということです。

私が意見の違いを気にしていたのは、意見の違いから起こる対立・争いだったのです。

意見の違いがあっても、対立や争いがあるとは限らないのです。

そのことをよくわきまえれば、意見の違いを気にする必要がないのです。

意見の違いを乗り越えなくてもいいのです。

違いのまま存在し得るのです。

冷静に世界を見れば、世界は違いのまま存在しています。

さらによく見れば、助け合って存在しています。


・・・・・

お知らせ:本日のブログ掲載は、下記の理由で少し遅くなりました。
「サーバメンテナンス作業のため、以下の時間帯に本サービスのご利用はできません。大変お手数ですが、お時間を変えてご利用ください。メンテナンス期間: 2021年09月15日(水)AM02:00 ~ 2021年09月15日(水)AM08:00」

意見の違いをいかに乗り越えるか?

世間にはいろいろ問題がありますが、私がいま気になっていることの一つは、

意見の違いをいかに乗り越えるかです。

しかし、この問題をよくよく考えると、簡単な問題ではなく、

おそらく、これは一番難しい問題で人類の最終課題でしょう。

これを書いていて、時間がなくなりました。

ラジオ体操に行く時間になりましたから、

この続きは、明日書きます。

皆様も考えてください。



石法如来の特別寄稿:古希を生きる・・・三つのおごり。(その1)

私は、今年3月に満七十歳になりました。七十歳と言えば古希ということですが、本来は数え年で祝っていたそうですが、現在では満年齢で祝うことが多くなってきているようです。
 
古希について、唐代の詩人である杜甫(とほ)は曲江(きょっこう・中国の長安の東南にあった池の名)において次のような詩を書いております。・・・「酒債(しゅさい)は尋常行く処(ところ)に有り 人生七十古来稀なり」(酒代の付けは私が普通行く所には、どこにでもある(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)と。
 
自分が実際に七十歳になり、今までとまったく違う感慨を持っております。まず、杜甫の詩にも「人生七十古来稀なり」とあるように、よくぞ「ここまで生きてきたな」という思いと、「あと何年生きる(生きられる)のだろう」という二つの異なった思いが交差しています。
 
それには訳があります。それは、私の実の両親が共に七十代でこの世を去っているという事実です。この事実は、自分にすればかなり大きなものがあります。
私の考え方(思考)の癖として、どちらかと言えば楽観論に与しないということ。かといって、極端な悲観論者でもありません。
 
私の話は、知らない人にしたら「どちらかと言えば悲観論」として受け止められる傾向が強いのです。自分自身、なぜ自分はその様な話し方をするのだろう?と振り返ったことがあります。自分自身が得た答えは、仏教思想を学んでいるからだというものです。
 
私が主に学んだ原始仏教経典は、現実的な問題についてより適切な答え出すよう組み立てられています。そのような経典の思考に慣れていくと、流れ的には「現実を注視する」、次に「法(理法)に基づき現実に沿った(適切な)答えを出す」というものです。
 
釈尊という方は、リアリストと称される程の人物ですから、どうでも良い問題には答えない=現実に即した問題に対し、法(ダルマ・理法)に即した適切な解答をされますから、これ以上のものはありません。
 
その様な、基本的思考の流れが分かっていない人間と話をしても、最初から思考の出発点が違っているので大体話にはなりません。その様な場面の解決策として必要なことは、自分以外の他者とは「難しい話や余計な話はしない」こと。・・・それが、穏便に暮らすには必要なことです。
 
と言うのは、「現実的な問題」というのは普通の人間は突き詰めて考えるということがありませんから、私の話は「悲観的で暗いもの」と受け止められてしまう可能性が高いということです。
 
私の場合は、人間の寿命(自分の寿命)について両親の実例を参考に、七十代のどこかで終わるということを想定しています。その様なニュアンスのことを、仮に他人に話したら大抵は「早すぎる」、「悲観的だ」などというようなことを申します。
 
因みに、日本人の平均寿命は2019年の統計によりますと男性が81.4歳、女性が87.4歳だそうです。人々は、多分この数字に基づいて「早い遅い」を判断しているのでしょう。
確かにそれは一つの判断材料にはなりますが、絶対という訳には行きません。本人の、希望的観測が含まれているからです。
 
私は、ここ1~2年ほど北海道新聞朝刊を読むとき必ず死亡広告欄を見ます。知り合いの逝去についての確認は、ある程度必要なことだからです。
次に、七十歳以下で何人亡くなったかを数えます。その数は、毎日違いますが比率は全体の大体10~15%前後です。
 
たしかに、現実的に考え亡くなっている方の大半は七十~九十歳ですが、七十歳以下の方も必ず亡くなっているという事実があります。実際、私の学生時代の同級生も同世代の親戚も数名亡くなっております。
 
年齢が七十歳となり、身体は老い衰えましたが変わらないものがあります。それは、「意識(気持ち)」です。仏教的な、意識の問題は横に置いておくとして・・・人間の「意識(気持ち)」というものは、自分自身の身体など違い「老化しない(していない)」ので、いつまでも変わらないものという錯覚を抱きます。
 
これは、かなりやっかいなものです。一番良い例は、頭で考えたら簡単にできることを、実際に身体を使い実行するとなると身体が動かない。あるいは、身体が付いていかないということが現実に起こるからです。
 
老いゆく自分自身の姿形(すがたかたち)と同じように、自分自身の「意識(気持ち)」も確実に老化し変化していると捉えないと、とんだ「しっぺ返し」を受けることになります。・・・「こんな筈ではなかった」と。


*法津如来のコメント

先日、9月12日から次の石法如来の特別寄稿が始まると予告しましたが、今日のブログに掲載になりました。だいたいメールで原稿を受け取った翌日に掲載させて頂いております。


 

「幸福の哲学(原始仏教) 第一話 あっちゃんとの対談」

今日は、「幸福の哲学(原始仏教) 第一話 あっちゃんとの対談」というYouTubeの動画を紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=ic-7G7atHK8

その理由は、幸福の哲学(原始仏教)という言葉に引かれたことと、

最近の青年は、原始仏教をどのように解説するのかという点に興味があったことです。

「あっちゃん」という人についてはよく知らないのですが、彼のブログ「日本一、人見知りする社長の奮闘記」によると、「38歳、男、職業:社長」とあります。
http://comline.seesaa.net/category/1464467-1.html

さて、この動画は数回続く対談の第一はということで、原始仏教の内容に入ってはおらず、その前段として脳とコンピューターとの比較を行っています。

それが面白いのです。

彼の話は、松本元著「愛は脳を活性する」に基づいて話されているようです。

松本元という方は、元東大教授で、65歳で亡くなったようですが、脳型コンピューターの開発をされていたようです。

そのために、脳とコンピューターの違いを研究されていたのでしょう。

その結論は脳には「愛と確信」が必要とされますが、

現在使われているノイマン型コンピューターは合理的であることが必要とされます。

現代の社会はコンピューターに基づいて合理的が優先される社会になっている。

そのために、人間がコンピューターに合わせるという奇妙な社会になっている。

そのために、人間が苦しむのだというのです。

最後に、「あっちゃん」は理想の人間の生き方を、あだち允の「タッチ」という漫画が示していると述べていました。