テーマ:仏道の真実

SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(6)

(以下引用) 【経典の読誦】(6) もちろん、どのブッダにも共通の特性がある。それは、  「ブッダはやさしさの究極の相である」 ということである。 このため、すべての経典にはこのことに基づく特徴が継承されている。 一部の経典は極めて難解で冷徹な印象を受けるかも知れないが、仏教の真髄を理解した人にはこの…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(5)

(以下引用) 【経典の読誦】(5) 正法とは、言ってみればその経典を著したブッダの世界観の表明である。 そして、その世界観に基づいて経典は統一的に編纂されることになるのである。 さまざまな方便の説も、その世界観を分かり易く補強するためのものである。 すなわち、ある経典を読誦するということは、その経典を著した…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(4)

(以下引用) 【経典の読誦】(4) したがって、とくに大乗経典を読誦することの一番の意味は正法を知ることにある。 ただし、経典の中のどの部分が正法であるかは明らかには示されていない。 覚った人だけが、それぞれの経典の正法の記述部分を指し示すことができるのである。 あるいは、覚ったときに経典のどの部分が正法で…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(3)

(以下引用) 【経典の読誦】(3) もちろん、それぞれの経典にはその核心である正法の記述が認められる。 人は、正法にしたがい、正法により、正法の真の理解を生じつつあるとき、まさしく正法を理解する機縁を生じ、因縁があって、正法の記述が真実であると知った人が、この正法によって仏となるのである。 大乗経典は、これを最も…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(2)

(以下引用) 【経典の読誦】(2) 初期の段階では、ブッダの言葉を集め、憶えやすくするために韻文の偈の形に編集して口伝で継承された。 時代が下って、文字を用いて経典を記すようになると、散文や物語性を帯びた経典が編纂されるようになった。 そして、釈尊の滅後4〜500年経過した時代には、いわゆる大乗経典が当時のブッダ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(1)

(以下引用) 【経典の読誦】(1)  ある人は、経典を読誦することは、仏教とは何であるかを知的に理解することに役立つものであると考えているかも知れない。 しかしながら、経典が書かれた本来の目的は、衆生が覚ることに直接役立たせようとしたものである。 (以上引用) *法津如来のコメント 【経典の読誦】…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【聖なる沈黙】

(以下引用) 【聖なる沈黙】 この世には、言わなければならないことがあり、また言ってはならないこともある。 聖なる沈黙というのは、言いたいことが明確にあるのだが、それを口にすることで相手を——そして自分も——悲しませてしまう恐れがあるときに、敢えて沈黙を守るということを指している。 世間で言うところの瞳の色で語る…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱知見論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱知見論 解脱したときには、自分が解脱したという正しい知見を生じる。 私自身、覚り以前にこの教えを知ったとき、なぜそのような知見を生じると断言できるのかがとても不思議であった。 しかしながら、実際に自分が覚った(=解脱した)とき、まさしく解脱知見を生じたのである。 ここに、…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱論 解脱とは、一言で言えば、この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅である。 ただし、このことを了知するのは覚った後であって修行者は知ることができない。 そこで、解脱論という場合には、解脱がどのようなときにどのようにして起こるのであるかということについての論であると考え…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 智慧論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 智慧論 智慧は、煩悩の流れを塞ぎ止めるものである。 ここに、修行は完成を見る。 それ以外のことは、智慧の働きとは言えない。 これは、意味合いとしては発明や発見の構図と同じである。 それが為されるまではこの世には存在しないものであった。 しかし、それが為し遂げられた…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 禅定論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 禅定論 禅とは外面的な心の安定を指し、定とは内面的な心の不動を云う。 そして、覚った人はこの両方を完成させている。 このため、修行者がただ目を閉じて座っているだけで禅定に達することはできない。 では、どうすれば禅定に達することができるのであるか。 それについて考究するこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談】◇ 戒論論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 戒論 戒律は、してはならないことを取り決めて人を縛り付けるためのものではない。 戒律は、むしろ修行者が自由闊達に振る舞うためにこそ規定されるのである。 例えば、スポーツはルールに則って行わなければならないが、逆に言えばルールに則っていさえすれば思い切ったプレイを為して良いというこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 精進努力論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 精進努力論 精進すべきことは真実についての考究であり、努力は混迷に陥らないように用いなければならない。 このようなことが説かれるのは、精進と洗練することを混同したり、努力とこだわりとを勘違いしてしまう修行者が見られるからである。 精進も努力も、安らぎという結果に結びつかなければ意味…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 不交際論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 不交際論 世人は、互いに何かを与えて交友を結ぶ。 これは世俗的には楽しいことであるが、仏道修行は本来独り歩むものなのである。 そして、このことは他の修行者にとっても同じ筈である。 そこで、修行者は交際することからの正しい離脱を考究しなければならない。 要するに、与えるこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 遠離論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 遠離論 世には、厭離すべきものが四つある。 これらに近づいてしまうのでは、修行はままならない。 人生の甘美なものには危険があると知って、こころある人は厭離すべきである。  ・ 修行ということにとらわれてしまうという避けるべきことを避ける  ・ 自分の身に起きた異常な体験を人々に…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 知足論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 知足論  知足というのは「足るを知る」という意味であるが、このことが最も発揮されるのは、覚りの機縁——ことに臨んだそのとき——においてである。 これは、通常、法の句を耳にしてもそれが智慧の現れであることに気づくことは難しいということに根ざしている。 そのような困難がありながら、功徳…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 小欲論

(以下引用) 【善き談論】◇ 小欲論  小欲の人だけが覚るというわけではない。 しかしながら、小欲でなければ覚ることは難しいとは言えよう。 欲望の恐ろしいところは、知らない間に膨らみ、気がつけば自分でも抑制できなくなっていることにある。 このため、欲望は火に譬えられるのである。 欲望を…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】

(以下引用) 【善き談論】  省察や観、および公案に取り組むことが自分一人でできることであるのに対して、談論は複数の人の間で行うことがらである点が違う。 このため、修行の一環として談論を為す場合には、互いに有意義な談論を行わなければならない。 そうでなければ、自分においても、相手にとっても利益(りやく)のある修行…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(8)

(以下引用) 【公案】(8)  ● 事実として、私(=SRKWブッダ)は覚り以前において世間の公案を解くのに苦労した憶えがない。 世に存在するどのような公案でも容易に解けたし、(久松真一氏の)基本的公案のような高位の公案でも二ヶ月ほどで解けたからである。 しかしながら、そのことと私が作仏したこととを安直に結びつけ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(7)

(以下引用) 【公案】(7)  ● 公案が解けたのにも関わらず〈特殊な感動〉を生じることがなかった者は、公案には縁がない。 それだけでなく、智慧を得ることは難しいかも知れない。 ただし、読者はたとえそのようになったとしても悲観すべきではない。 望みを未来に繋いで、しっかりと道の歩みを続けるべきである。 …
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(6)

(以下引用) 【公案】(6)  ● 極めて高度な公案を通過すれば覚ったと言えるのではないか?  ある人はそのように期待するかも知れない。 しかしながら、この世のどんな公案によっても覚ることはない。 もし、公案によって自分が覚ったなどと思う者があるならば、まさに噴飯ものである。 読者は、決してそのように…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(5)

(以下引用) 【公案】(5)  ● 公案の通過は、自分を超え、善悪を超えるものである。 しかしながら、それだけによって自分が浄らかになったと考えてはならない。 それが人のあり得べき究極の帰趨であると理解する人が、公案を真の意味で正しく解いたことになるからである。 要するに、公案によって明瞭となる境涯は、人智…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(4)

(以下引用) 【公案】(4)  ● 公案の通過は、たかだか「公案にまつわるその表象」を得るだけのものである。 そうは言っても、高位の表象は真如に匹敵するものであることはその通りである。 具体的には、例えば「一円の公案」の通過者には初期の心解脱を認定できることになる。 ただし、繰り返しになるが、公案を解いたこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(3)

(以下引用) 【公案】(3)  ● 自分自身、公案が解けたことを喜んではならない。 そして、公案が解けたことを喜ばない(歓喜しない)人こそが、本当の意味で公案を解いたのである。 これは、公案が解けたという事実が、修行が進んだことを示すものとはならないことによるものである。 すなわち、公案は功徳を積んでいるこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(2)

(以下引用) 【公案】(2)  ● 通常、公案は容易には解けない。 しかしながら、ある人はまるで容易に解く。 その様子を見て、解けない人は自分を卑下してしまうかも知れない。 しかし、それは当たらない。 これを以て、自分には覚りは無理だなどと考えてしまうようであるならば、公案に取り組むことそれ自体が本末…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(1)

(以下引用) 【公案】(1)  歴史的に最初に公案が作られた目的は、覚った人を互いに見分けるためのテストという位置づけであったろうと推察される。具体的には、仏ならばこのように行為するとか、仏はこのように考えるということをエピソードを含めた設問として提示し、その真意を相手に問うて技量を判断するわけである。そして、その問いに見事…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(5)

(以下引用) 【観(=止観)】(5)  では、なぜ止の理解は容易ではないのだろうか。それは、あり得べき観が本質的に心を揺り動かす要素を含んでいることに由来している。そのような中において、心を木石のように閉ざすのではなく、心を制し導き、その根本の動揺を静止させなければならない。その為し難きことを為し遂げたとき、止が完成する。こ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(4)

(以下引用) 【観(=止観)】(4)  続いて、観の完成時に何が起こるのかについて述べたい。  ● 観の完成時——実際にはその刹那の直前——に起こることは、止(シャマタ)である。この止を完全に理解したとき、観が完成する。すなわち、観の本質は実は「止」を理解する道程なのである。そして、何を観じても止が理解できるわけではな…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(3)

(以下引用) 【観(=止観)】(3)  さて、次に観のあり得べき進行について述べたい。要するに、正しい観はどのようにして為されるのであるかということの説明である。  ● 観は、最初から最後まで基本的に修行者が好きに行ってよいものである。つまり、何をどのように観じてもよいのである。それが自然と正しい観に収束することになる…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(2)

(以下引用) 【観(=止観)】(2)  以下に、観の実際について述べたい。  観は、修行者にとって一種魅力的な修行方法である。なぜならば、観は基本的には時と場所を選ばず、誰の手も借りずに自分だけで行うことができるものだからである。しかしながら、修行者が観を正しく実践することは決して容易ではない。修行者は、最初は何をどう…
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