テーマ:仏道の真実

SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(1)

(以下引用) 【観(=止観)】(1)  省察をさらに発展させたものが観(=止観:以下、断らない限り観と書いた場合には止観を意味する)である。違いは、省察は自分自身のことがらを対象として行うものであるのに対して、観は衆生を対象としている点にある。要するに、観とは一般化された省察なのである。  観は、智慧を知的考験の先にあ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【省察】

(以下引用) 【省察】  自分ではない他人の過ちをどんなに正確に把握したとしても、それによって覚りを生じることはない。その一方で、他ならぬ自分自身の過ちを把捉したならば、それは覚りの重要な機縁ともなる。その具体的な方法が、省察である。修行者が理法に適ったあり得べき省察を為し遂げたとき、安らぎに至る確かな道を見い出すであろう。…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【親近(しんごん)】

(以下引用) 【親近(しんごん)】  生き身のブッダが世に存在していることが前提となるが、ブッダの近くにいる人が解脱しやすいということがあるのだろうか。もしそうならば、ブッダの近くに馳せ参じて、常日頃から親しむことが勧められよう。  結論を言えば、親近することについては物理的な距離は関係がないということである。実際、近…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【仏教の知識】(3)

(以下引用) 【仏教の知識】(3)  ところで、釈尊は成道前には正法の具体的なことは知らなかったと思われるが、作仏するその刹那に正法を自ら誦出して知ったのであると推認される。いわゆる「明けの明星を見て」という仏伝の下りがこれに対応していると考えられるからである。  事実、ある正法はこの明けの明星に比喩される真理を述べて…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【仏教の知識】(2)

(以下引用) 【仏教の知識】(2)  なお、正法は智慧の姿形を記したものではない。 その出現の様子や作用効果について述べたものである。 例えば、世にも素晴らしい楽器があったとしよう。 そして、この宝を探している人はこの宝の本当の意味も姿形も知らない。 ここで、宝が何であるかを記した文章としては「美しい…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【仏教の知識】(1)

(以下引用) 【仏教の知識】(1)  仏教についての知識を学ぶことが修行である。と勘違いしている人が少なくないようである。かつて、私自身そうであった。  さて、もちろん仏道を歩むのに仏教の知識はあるに越したことはないのであるが、それによって直接に覚りを生じるわけではない。なぜならば、仏教の知識は、基本的には覚り(=解脱…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(9)

(以下引用) 【修行方法の例示】(9)  ● 何もしないことが修行となることがある。 悪いことをするよりは、何もしないことの方がすぐれているからである。 世人は、何かを行為することによって覚りに近づくと考えがちである。 しかしながら、真の修行はこれ見よがしなものではない。 重要な修行は、独り居において…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(8)

(以下引用) 【修行方法の例示】(8)  ● 経典を読誦することは、修行となり得る。 修行しているという実感は伴わないかも知れないが、経典を記した仏に親近することを得て、因縁があれば身解脱を生じる場合がある。 (以上引用) *法津如来のコメント 「経典を読誦」についても、SRKWブッダ著「仏道の真…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(7)

(以下引用) 【修行方法の例示】(7)  ● 公案に取り組み、最後の一関たる(久松真一氏の)基本的公案を通過したならば、心解脱を完成したと認められる。 このとき、自分が心解脱したという実感を生じる筈である。 ただし、これは解脱知見ほどはっきりしたものではないことに注意しなければならない。 (以上引用) …
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(6)

(以下引用) 【修行方法の例示】(6)  ● 観を為し、止観を完成させることは誰にとっても修行となり得る。 観を完成させたならば、心解脱者となる。 このような人は、人間関係で苦悩することはなくなる。 (以上引用) *法津如来のコメント 「観」については、SRKWブッダ著「仏道の真実++」に「…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(5)

(以下引用) 【修行方法の例示】(5)  ● 心について探究することは修行となり得る。 これは、心の働きを理解することがその一つである。 また、「心によって心を滅し、ついに解脱が起こるという真理」を理解することもまた修行の糧となる。 〈道の人〉は、心を働かせることがない。 しかしながら、それは木石のよ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(4)

(以下引用) 【修行方法の例示】(4)  ● 省察することは、修行となり得る。 他ならぬ自分自身の行為について省察するならば、確かな覚りの機縁へと結びついて行くものともなるからである。 ここで、省察は過去の自分の行為について行う。 ことの起こりと、顛末と、それぞれの帰趨を思い出さなければならない。 そ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(3)

(以下引用) 【修行方法の例示】(3)  ● 聖なる沈黙は、時に修行となる。 これは、慈悲喜捨の「捨」に通じるものである。 捨を完全に自分のものとしたならば、それは一つの解脱であると言っても過言ではない。 聖なる沈黙は、相手の本当のところを知ろうとして為されるものである。 同時に、自分の本当のところを…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(2)

(以下引用) 【修行方法の例示】(2)  ● 善き談論は、修行となる。 修行者は善き談論を為すことによって次第に仏教の根本についての理解を深め、ついに因縁を生じて解脱すると期待され得るからである。 もちろん、談論は井戸端会議のような埒のあかないものであってはならない。 具体的には、小欲論、知足論、遠離論、不…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(1)

(以下引用) 【修行方法の例示】(1)  繰り返しになるが、仏道修行においては実のところ固定的な修行法など何一つ存在していない。しかしながら、構成概念としての修行法ならば提示することができる。それについて述べたい。ただし、以下に提示することはそれぞれ修行の一例に過ぎない。これらを履修することが修行になるわけではないことには、…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行は無駄にはならないのか】

(以下引用) 【修行は無駄にはならないのか】  遍歴修行を為すということであるならば、もしも修行が完成しなかった場合にはどうなるのであろうか。つまり、それまでの修行は無駄になるのではないかという危惧を持つ人があるかも知れないということである。これについて述べたい。  結論を言えば、修行が無駄になるかも知れないと予め不安…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(7)

(以下引用) 【遍歴修行】(7)  しかし、具体的にはどうすればよいのであろうか。それは、縁に委ねてその時々に行いたくなった修行を行なうことである。ただし、種々雑多なことをしてはならない。それぞれの時期には一つのことがらに専念すべきである。そして、一定の期間が過ぎたならば、一つのことがらにこだわることなく他の修行に勤しむのも…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(6)

(以下引用) 【遍歴修行】(6)  修行には、終わりがある。先の譬えで言えば、周到に東京に到着した人は旅の終わりをはっきりと知るであろう。東京では、見るもの聞くものすべてが田舎のそれとはまるで違っているからである。その一方で、富士山の山頂に立った人は、旅の終わりを知るどころかこれからどうしようかと途方に暮れているだろう。ある…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(5)

(以下引用) 【遍歴修行】(5)  ここで、心構え正しき人は「上り」という言葉を素直に信じ、正しく用いるであろう。その一方で、心構え正しからざる者は、これを「登り」であると誤認するかも知れない。そして、後者は、気がつけば富士山の頂上に立つことになるかも知れぬ。もちろん、それでは本来の目的地に到達したことにはならない。 …
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(4)

(以下引用) 【遍歴修行】(4)  ここで、心構え正しき人とはその根底の求めが正しいことと同義である。逆に、根底の求めが邪だと心構えは正しくならない。この根底の正しい求めを「聖求」と呼ぶ。すなわち、聖求ある人は、そのまま道を歩めば必ず覚りに達すると断言できることとなる。  聖求については、ずいぶん前の章で説明した。ここ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(3)

(以下引用) 【遍歴修行】(3)  さて、この心構えについて説明するには、字が上手くなろうとして練習することが譬えになるであろう。このとき、学生の心構えが正しければ、練習を重ねて達筆となり目的を達成することができよう。しかし、心構えに問題があると、練習しても達筆とはならず癖字になってしまうだろう。そして、困ったことに彼は練習…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(2)

(以下引用) 【遍歴修行】(2)  このため、修行の本質は「あれもダメこれもダメ」というようなものではなく、むしろいろいろなやり方が認められ得るものとなる。ただし、その根本は法(ダルマ)に適ったものでなければならない。つまり、その修行がニルヴァーナに至るということに結びつかなければ意味はないということになる。  また、…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(1)

(以下引用) 【遍歴修行】(1)  修行について整理すると、次のようになる。  ○ そもそも固定的な修行法など存在していない。  ○ 具体的な修行法は自分自身で見出さなければならない。  ○ ニルヴァーナに至ったとき、自分の修行が何であったのかが分かる。  ○ 一般に、功徳を積むことが修行そのものとなる。  ○…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行の終わり】

(以下引用) 【修行の終わり】  誤解している人も少なくないと思うが、覚りに向けた修行は生きている間ずっと続けなければならないものではなく、終わりがあるということである。すなわち、覚った時点で修行は完成し、その後の修行は不要となるからである。  たとえば、すでに大人になった人にさらに大人になれなどとは言わないであろう。…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(7)

(以下引用) 【功徳のよすが】(7)  さて、すべての修行は功徳を積むために行ぜられるものである。逆に言えば、功徳を積むことを得るならば、別に修行という形にこだわる必要はないということである。  こんなことを言うのは、修行などあからさまに行った形跡がないのに覚る人が見られるからである。実際、私の細君(=法風如来)はその…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(6)

(以下引用) 【功徳のよすが】(6)  ● 功徳は、重荷を下ろすために積むものである。重荷が却って増えたならば、それでは功徳を積んだことにはならない。ここで言う重荷とは、しがらみという意味である。功徳を積んだ人は、生活が簡素になり静けさが増す。日々を軽々と送るようになる。 (以上引用) *法津如来のコメント …
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(5)

(以下引用) 【功徳のよすが】(5)  ● サンガ(僧伽)の存在が前提であるが、功徳を積むには出家がすぐれている。 しかしながら、それは家出であってはならない。ここで言う家とは、こだわりの総体を指す。 出家とは、自分の趣味の世界から出て浄らかな集いに住み処を移すということである。 また、家出とはこだわりを心…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(4)

(以下引用) 【功徳のよすが】(4)  ● 功徳は、大事なものが残っている間は積み終わることがない。 これは、覚ったとき、それまで自分が大事だと思っていたものが実はそうではないことを知ることになるという意味である。 世人は、世間のことがらを後生大事にしているものである。 ところが、それが実は自分を縛る縄なの…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(3)

(以下引用) 【功徳のよすが】(3)  ● 功徳は、余計なものを捨て去ることによって積まれる。ただし、本当に大切なものは捨て去ってはならない。その本当に大切なものとは自分自身である。ここで、初学の修行者はその余計なものが何であるのかを明確に知ることは難しいであろう。そこで、省察を為すことが勧められる。省察によって、本当の自分…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(2)

(以下引用) 【功徳のよすが】(2)  ● 予め功徳を積んでいることは、功徳のよすがである。「さあ功徳を積もう」などと言って何も無いところから一気に功徳を積むことはできない。たとえば、大きな結晶を綺麗に作るためには種になる小さな結晶を用意し、それを少しずつ成長させて形成していくであろう。それと同様である。では、最初の功徳はど…
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