テーマ:善き談論

SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱知見論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱知見論 解脱したときには、自分が解脱したという正しい知見を生じる。 私自身、覚り以前にこの教えを知ったとき、なぜそのような知見を生じると断言できるのかがとても不思議であった。 しかしながら、実際に自分が覚った(=解脱した)とき、まさしく解脱知見を生じたのである。 ここに、…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱論 解脱とは、一言で言えば、この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅である。 ただし、このことを了知するのは覚った後であって修行者は知ることができない。 そこで、解脱論という場合には、解脱がどのようなときにどのようにして起こるのであるかということについての論であると考え…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 智慧論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 智慧論 智慧は、煩悩の流れを塞ぎ止めるものである。 ここに、修行は完成を見る。 それ以外のことは、智慧の働きとは言えない。 これは、意味合いとしては発明や発見の構図と同じである。 それが為されるまではこの世には存在しないものであった。 しかし、それが為し遂げられた…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 禅定論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 禅定論 禅とは外面的な心の安定を指し、定とは内面的な心の不動を云う。 そして、覚った人はこの両方を完成させている。 このため、修行者がただ目を閉じて座っているだけで禅定に達することはできない。 では、どうすれば禅定に達することができるのであるか。 それについて考究するこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 精進努力論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 精進努力論 精進すべきことは真実についての考究であり、努力は混迷に陥らないように用いなければならない。 このようなことが説かれるのは、精進と洗練することを混同したり、努力とこだわりとを勘違いしてしまう修行者が見られるからである。 精進も努力も、安らぎという結果に結びつかなければ意味…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 不交際論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 不交際論 世人は、互いに何かを与えて交友を結ぶ。 これは世俗的には楽しいことであるが、仏道修行は本来独り歩むものなのである。 そして、このことは他の修行者にとっても同じ筈である。 そこで、修行者は交際することからの正しい離脱を考究しなければならない。 要するに、与えるこ…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 遠離論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 遠離論 世には、厭離すべきものが四つある。 これらに近づいてしまうのでは、修行はままならない。 人生の甘美なものには危険があると知って、こころある人は厭離すべきである。  ・ 修行ということにとらわれてしまうという避けるべきことを避ける  ・ 自分の身に起きた異常な体験を人々に…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 知足論

(以下引用) 【善き談論】 ◇ 知足論  知足というのは「足るを知る」という意味であるが、このことが最も発揮されるのは、覚りの機縁——ことに臨んだそのとき——においてである。 これは、通常、法の句を耳にしてもそれが智慧の現れであることに気づくことは難しいということに根ざしている。 そのような困難がありながら、功徳…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 小欲論

(以下引用) 【善き談論】◇ 小欲論  小欲の人だけが覚るというわけではない。 しかしながら、小欲でなければ覚ることは難しいとは言えよう。 欲望の恐ろしいところは、知らない間に膨らみ、気がつけば自分でも抑制できなくなっていることにある。 このため、欲望は火に譬えられるのである。 欲望を…
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SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】

(以下引用) 【善き談論】  省察や観、および公案に取り組むことが自分一人でできることであるのに対して、談論は複数の人の間で行うことがらである点が違う。 このため、修行の一環として談論を為す場合には、互いに有意義な談論を行わなければならない。 そうでなければ、自分においても、相手にとっても利益(りやく)のある修行…
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